十国春秋十國春秋卷十八 南唐四 南唐后妃伝(烈祖・元宗・後主の妃后)
烈祖順妃王氏
- 順妃王氏は烈祖(李昪)のもとの正室。父の王戎は呉の昇州刺史をつとめ、義祖徐温の取り持ちで烈祖に嫁いだ。
- 性質はきわめて孝順で、義祖が病臥したときは烈祖が夜も帯を解かずに看病し、咳の声が聞こえれば妃を伴って枕元へ向かった。義祖が「誰か」と問うと烈祖は「知誥(=李昪)です」と答え、「連れは誰か」と重ねて問われて「知誥の妻です」と答えたという。
- 魏國君にまで累進して封じられたが、まもなく没した。義祖は長く嘆き惜しんだ。烈祖の建国後(937年)、順妃を追封された。
元敬皇后宋氏
- 元敬皇后宋氏、小名は福金。父は宋韞、江夏の人。幼くして乱兵のなかで肉親と離れ、昇州刺史の王戎のもとに身を寄せた。
- 烈祖が王戎の娘(順妃)を娶ったとき、宋氏は媵(付き添いの侍女)として従い、寵を得て元宗(李璟)を生んだ。順妃が早く世を去ると、義祖の命で正式な継室となった。
- 廣平郡君に封じられ、のち晉國君に進む。家内を法度をもって治め、みだりに笑い興じることがなかった。
- 義祖が金陵で没したとき、広陵にいた烈祖が弔問に駆けつけようとすると、后は静かに諫めた。孝を移して忠とするのは臣子の常だが、いま権が重く身の危ういときに握っている実権を手放せば、太阿の剣を逆さに持って柄を人に渡すようなものだ、と。烈祖は大いに悟って思いとどまった。
- 天祚二年(936年)、烈祖が齊王となると王妃に封じられ、まもなく受禅にともない皇后に立てられた。傍らからの助言に益するところが多く、烈祖は「自分がまだ思い至らぬことを、后はすでに悟っている」と語った。
- 昇元末年、烈祖は金石の薬(丹薬)を服して激昂しやすくなり、后のとりなしで処罰を免れた者が多かった。
- 烈祖の崩御後(943年)、中書侍郎の孫晟は、魏岑・馮延巳・馮延魯ら東宮の旧僚が実権を握るのを恐れ、遺詔と称して后を臨朝聴政に担ぎ出そうとした。后は「それは武后の故事だ、私がするものか」と拒んだ。
- 元宗の即位後は皇太后と尊ばれた。元宗が朝見に来るたび労をねぎらうだけで、政務については一言も口にせず、「婦人が外の事に関わるのは国の福ではない」と述べた。
- 保大三年十月(945年)に没し、永陵に合葬、諡は元敬。
夫人种氏
- 种氏、名は時光。江西の良家の女。聡明で書と計数に通じ、常に化粧を落とし飾りを去りながら、物腰は閑雅で神仙のようであったという。十六歳で入宮し樂部に配属された。
- まもなく寵を受けて景逷を生んだ。烈祖は受禅後に得た子として景逷をことのほか愛し、种氏の寵は日ごとに増して夫人に封じられた。
- 烈祖は性質が厳しく、怒れば声は虎の唸りのようで殿の金環が震え、左右の者は肝を潰した。そんなとき种氏は左手に食器を持ち右手で箸を進め、平常と変わらぬ様子で接したので、烈祖の怒りもたちまち解けた。
- ある日、烈祖が齊王(景遂)の宮に行幸し、王が自ら楽器をいじっているのを見て激怒し数日責め立てた。种氏が寵をたのみ、機に乗じて「景逷の才は齊王に勝る」と言うと、烈祖は色を正して「子に過ちがあれば父が教えるのが常道だ、なんという言い草か」と叱り、殿を下がらせ簪珥を取り上げて別宮に幽閉、数か月後に尼にさせた。景逷への愛もそれきり薄れ、烈祖の在世中、种氏はついに封爵を加えられなかった。
- 烈祖の崩御にあたり、种氏は「人彘(呂后が戚夫人にした仕打ち)や骨醉の惨事がまた繰り返されるのか」と泣いた。
- 元宗の即位後、景逷がはじめて保寧王に封じられ、种氏は景逷の宮に移って養われ、王太妃に進封された。元敬皇后は旧怨から幾度も害しようとしたが、元宗が力を尽くしてとりなしたため免れ、ついに天寿を全うした。
元宗光穆皇后鍾氏
- 光穆皇后鍾氏。父の鍾泰章は呉に仕え義祖の裨将となり、計略をもって張顥を殺した功があった。義祖の命で泰章の次女が元宗に嫁いだ。義祖ははじめて彼女を見て「この子(元宗)でなければこの娘には釣り合わぬ」と嘆じたという。
- 縣君に封じられ、累進して國夫人。昇元年間に齊王妃、元宗の即位(943年)とともに皇后に立てられた。
- 幼少から富貴に育ちながら玩好に耽らず、笄と粗布の装いのままで淡々としていた。皇后の位に就いてからも、年ごとの下賜はまず義理の姉妹たちに配ってから宮中に及ぼした。
- 淮上の戦(後周との交戦)が起こると、常の食膳を減らし、数か月にわたり音楽を廃した。
- 後主が即位すると皇太后となったが、父の名(鍾泰章)を避けて「聖尊后」と称を改めた。
- 后が病臥すると後主は朝夕そばに侍り、衣の帯も解かず、薬は必ず自ら味見してから進めた。乾德三年十月(965年)に没す。その日、金陵に砂が雨のように降ったという。後主は痩せ衰えて杖にすがってようやく立つほど哀しみ、周囲の者を動かした。順陵に合葬され、諡は光穆。
呉國太夫人凌氏
- 凌氏は元宗の後宮の人で、韓王從善を生んだ。後主の北遷(宋への移住)に従い、呉國大夫人に封じられた。
後主昭惠國后周氏
- 昭惠國后周氏、小字は娥皇。司徒周宗の娘。十九歳で皇宮に嫁いだ。
- 書史に通じ、歌舞をよくし、とりわけ琵琶に巧みだった。かつて元宗の前で寿を祝って弾じたところ、元宗はその技を嘆賞し、秘蔵の「燒槽琵琶」を賜った。
- 双六や囲碁の類も妙絶であった。元宗が南都に行幸したときは、詔をもって安否を問い、「令婦」と称した。
- 後主の即位後、國后に冊立され、寵愛は他に及ぶ者がなかった。高髻・纖裳や首翹・鬢朶といった装いを創始し、人々はみなこれを真似た。
- ある雪の夜の酒宴で、后が杯を挙げて後主に舞を請うと、後主は「新しい曲を作れるならよい」と応じた。后はただちに紙を取り譜を綴り、喉に滞る音なく筆に止まる思いなく、たちまち譜を成した。これがいわゆる「邀醉舞破」である。「恨來遲破」もまた后の作である。
- 唐の全盛期の「霓裳羽衣」は大曲の随一だったが、乱離ののち伝承が絶えていた。后は残譜を得て琵琶で奏し、開元・天寶の遺音がふたたび世に伝わることとなった。
- 内史舍人の徐鉉がこれを国工の曹生から聞き、徐鉉自身も音律を解したので「法曲は終わりに向かって緩むもの、この曲がかえって急になるのはなぜか」と問うた。曹生は「旧譜は実際は緩やかだった。宮中の誰かが改めたのだ。吉兆ではない」と答えた。
- 後主は后が音律を好むのに引かれて自らも耽溺し、政務を怠った。監察御史の張憲が切諫すると、後主は敢言を表彰して帛三十疋を賜ったが、それでも改めなかった。
- まもなく后は病臥した。後主は朝夕食事を見守り、薬は自ら味見してからでなければ進めず、幾晩も衣を解かずに付き添った。
- 病が篤くなっても后の意識は乱れず、後主に向かって「賤しい身ながら君門に身を託し、華やかな寵を受けて十年、女の栄えとしてこれに過ぎるものはない。ただ子に先立たれ自らも死にゆき、御恩に報いられぬのが心残りです」と語った。そして元宗から賜った琵琶と、日ごろ腕にかけていた玉環を自ら取って後主への別れの品とし、さらに薄葬を請う書を残した。
- 三日後、沐浴して化粧を整え、自ら玉を口に含み、瑤光殿の西室で没した。乾德二年十一月甲戌(964年)、二十九歳。懿陵に葬られ、諡は昭惠。
- 後主は悲嘆に神を傷め、杖にすがって身を起こし、自ら誄文を作って石に刻み、后の愛用した金屑檀糟の琵琶とともに葬った。また文を書いて焼き、自ら「鰥夫煜」と称した。その辞は数千言、いずれもきわめて痛切なものであった。
- 一説に、后の病中にすでに小周后(妹)が宮中に入っており、后がたまたま帳を掲げて見つけ、驚いて「いつ来たのか」と問うた。小周后は幼くて嫌疑ということを知らず「もう数日になります」と答えた。后は恨みのあまり、死ぬまで顔を外に向けなかったという。後主が度を過ぎて哀しんだのは、その跡を覆い隠すためだったとも言われる。
後主繼國后周氏
- 繼國后周氏は昭惠后の妹。聡敏で才思あり、物腰は端正で静かであった。
- 昭惠后の没後、まだ喪の礼を終えぬまま宮中で年を待った。翌年は後主が聖尊后(光穆皇后)の喪に服したため、中宮は長く空位のままだった。
- 開寶元年(968年)、ようやく継室として立てる議が起こった。太常博士の陳致雍に古今の沿革を考証させて婚礼の式次第を起草させ、学士の徐鉉と知制誥の潘佑に参議させた。
- 徐鉉は「婚礼は吉礼だが楽は用いない」と主張し、潘佑は「今と古とは相承するものではない」として楽の使用を請うた。
- 徐鉉が「古の房中楽には鐘鼓がない」と論じると、潘佑は詩経の「窈窕たる淑女、鐘鼓もてこれを楽しましむ」を引き、房中楽にも鐘鼓があるべきだとした。
- 后がはじめて君に見えるときの作法について、徐鉉は後魏書の「先に拝して後に起つ/帝は後に拝して先に起つ」の文を挙げ、夫婦の礼は人倫の本であるとして答拝を請うた。潘佑は「王者の婚礼は庶人と同じではない」として答拝は不要とした。
- 議は長く決せず、後主は文安郡公の徐遊に是非を評させた。徐遊は多く潘佑の議を是としたので、それが採用された。ひと月後に徐遊が疽を病むと、自説が採られなかった徐鉉は恨んで「周公・孔子も祟りをなすものかね」と冗談を言った。
- 納采にあたり、後主は白雁の代わりに校鵝(家鵞)を用い、刺繍の覆いを着せて書を銜えさせた。とくに親迎の礼を挙行し、見物の民衆は数万に及んだ。
- 后は年少のころから外戚として宮中に出入りし、聖尊后にたいそう可愛がられていた。後主はその間の情を樂府に作って艶やかに詠み、「䌌襪金縷鞵」の句など辞は甚だ狎れたもので、かなり外部にも伝わった。冊立に至ってようやく正式な礼が整った形である。
- 婚礼の翌日、群臣を大いに饗応すると、韓熙載以下みな諷刺の詩を作ったが、後主はとがめなかった。
- 后への寵は昭惠后のときを上回った。後主は花々のなかに亭を作り、紅羅を覆いに玳瑁の牙で押さえ、彫り物は華麗ながら極めて狭く、二人がやっと入る広さで、しばしばここで后と酣飲した。また柔儀殿には玉太古容華鼎・金鳳口㷪などの器を並べ、いずれも金玉づくりで目を奪う輝きだった。
- 国が亡ぶと後主に従って北へ移り、鄭國夫人に封じられた。命婦の例に従って宋の宮中の宴楽に召され、参内すると数日は出られず、出れば大いに泣いて後主を罵り、その声は外にまで聞こえた。後主はもっぱら遠回しに避けていた。
- 太平興國二年(977年)、後主が急死すると、后は悲哀に堪えられず、これも没した。
保儀黃氏
- 黃氏は代々江夏の人。父の黃守忠は乱を避けて湘湖に流れ、馬氏(楚)に仕えて偏裨となり、恭孝王の難で戦死した。
- 邊鎬が長沙に入ったとき、まだ数歳の黃氏を得て、その容貌を非凡と見て後宮に入れた。後主の即位後、保儀に選ばれた。
- 容姿は当代随一で、目配せも顰めた顔も笑みも、すべて美しかったという。書札に巧みだったことから、宮中の書籍を専管させられた。
- 二人の周后が相次いで寵を独占したため、黃氏は賞識されながらもしばしば寵幸にあずかることはなかった。
- 元宗父子はともに書法をよくし、元宗は羊欣を学び、後主は柳公權を学んで、いずれもその十九分を得た。鍾繇・王羲之以来の墨帖を多く購入して収蔵し、それらを実際に管理したのが黃氏である。
- 城が陥落しようとするとき、後主は「これらはみな先帝の宝である。城が守れなければ焼け、他人の手に渡らせるな」と告げた。城が陥ると、すべて焼き尽くして残らなかった。
- 黃氏もまた北遷に従い、大梁(開封)で没した。
宮人流珠
- 流珠は後主の嬪御。聡明で琵琶に巧みだった。
- 後主はかつて「念家山破」を作り、昭惠后は「邀醉舞」「恨來遲」の二破を作ったが、伝わって久しく、楽籍の者の多くは忘れていた。
- 後主が昭惠后を追念して旧曲を整理しようとしたとき、左右に知る者がなかったなか、流珠だけが誤りなく想い起こすことができた。後主は特に喜んだ。のちの消息は分からない。
喬氏(および秋水・窅娘)
- 喬氏もまた後主の宮人で、書をよくした。宮中にありながら出家して仏に仕え、後主は自ら金字の『心経』を書いて賜った。
- 国が亡んで宋の禁中に入り、後主の死を聞くと経を持ち出して相國寺に施し、冥福を祈った。巻末に「故李國主宮嬪喬氏、國主百日に遇い、謹んで昔賜わりて妾が書せし般若心経を相國寺塔院に捨つ。伏して願わくは彌勒尊前に一花を持して佛に見えんことを」と記した。字は整い、辞は痛切であった。のちに江南の僧がこれを故国に持ち帰り、天禧寺の塔の相輪のなかに納めた。見る者はみな悲しんだ。
- ほかに秋水・窅娘という二人の宮人がいた。秋水は珍しい花を簪にするのを好み、芳香が鬢に漂って蝶がいつもその上を舞い、追い払っても去らなかった。
- 窅娘は繊麗で舞に巧みだった。後主は高さ六尺の金の蓮を作り、宝物や細帯・纓絡で飾り、蓮の中に色とりどりの瑞蓮を作らせ、窅娘に帛で足を巻いて細く小さくし、爪先を上に屈めて新月の形にさせ、白い襪で蓮花のなかを舞わせた。回旋するさまは水面を渡るような趣があり、これより人々がみな真似るようになった。