十国春秋十國春秋卷十七 南唐三 後主本紀(李煜、字は重光)
南唐元宗李璟の第六子で、初名を従嘉といった後主李煜(字は重光、?–978年)。文章・書画・音律に長じた文人肌の君主で、賦役を軽くして民を愛し、宋に卑屈なまでに仕えて十余年の小康を得た。しかし仏教に溺れて政務を疎かにし、林仁肇を殺し潘佑を死なせるなど人を失い、入朝の求めを拒んで宋の討伐を招いた。金陵陥落とともに降って違命侯に封ぜられ、汴京で没した南唐最後の君主である。
年表(22件)
- 建隆二年961年元宗の南都遷幸に伴い、太子として金陵に留まり監国となる
- 建隆二年961年元宗が崩じて金陵で位を嗣ぎ、名を煜と改める
- 建隆三年962年清源節度使の留従効が薨じ、陳洪進が泉州の実権を握る
- 建隆四年963年宋が荊湖を平定し、使者を軍前に遣わして軍を犒う
- 乾德二年964年鉄銭を流通させたため銅銭が退蔵される
- 乾德二年964年国后の周氏が没する
- 乾德三年965年母の聖尊后鍾氏が没する
- 乾德四年966年龔慎儀を南漢に遣わして共に中朝に仕えようと約させたが、番禺で捕らえられる
- 乾德五年967年両省の学士らを光政殿に宿直させ、夜半に及ぶまで諮問する
- 開寶元年968年旱に際し宋から米麦十万石を送られ、周氏を国后に立てる
- 開寶二年969年青竜山の狩りの帰りに自ら囚人を調べて多くを許し免ずる
- 開寶三年970年境内に仏寺を盛んに修めさせ、后とともに袈裟を着て仏経を誦す
- 開寶四年971年宋の南漢平定に恐れ、韓王従善を遣わして「江南国主」と称する
- 開寶五年972年儀制を下げて詔を教と改め、南都留守の林仁肇を殺す
- 開寶六年973年切諫した潘佑が自殺し、李平も獄中で縊死する
- 甲戌歲(開寶七年、)974年入朝の求めを病と称して拒み、宋が水陸から出師する
- 甲戌歲(開寶七年、)974年宋軍が池州を落とし、開宝の紀年を去って「甲戌歳」と称する
- 乙亥歲(開寶八年、)975年宋軍が金陵の関城を抜き、報を握りつぶした皇甫継勲を誅する
- 乙亥歲(開寶八年、)975年朱令贇の救援軍が皖口で自軍の火に焼かれて大敗する
- 乙亥歲(開寶八年、)975年金陵が陥落し、殷崇義ら四十五人を率いて肌脱ぎで軍門に降る
- 976年汴京に至り、光禄大夫・右千牛衛上将軍とされて違命侯に封ぜられる
- 太平興国三年978年七夕の日に薨じる。享年四十二、太師を贈られ呉王に封ぜられる
出自と即位まで
- 後主は名を煜、字を重光、初名は従嘉といい、元宗の第六子である。母は光穆聖后の鍾氏。
- 人となりは仁愛深く、聡明な資質があり、文章をよくし、書画に巧みで、音律に通じていた。額は広く頬は豊かで、歯が重なり、片目が重瞳であった。
- 文献太子(弘冀)がその非凡な相貌を憎んだので、従嘉は禍を避けてひたすら経籍を読みふけった。安定郡公、鄭王と封を歴、文献太子が薨じると呉王に移された。尚書令として政事を知り、東宮に居った。
- 建隆二年(961年)、元宗が南(洪州)へ遷ると、太子に立てられて金陵に留まり監国となった。厳続と殷崇義がこれを輔け、張洎が上奏文書を掌った。
- 六月、元宗が崩じ、金陵で位を嗣ぎ、名を今の「煜」に改めた。喪に居って悲しみのあまり身を損ない、ほとんど堪えられぬほどであった。境内に大赦した。
- 母の鍾氏を聖尊后と尊んだ。妃の周氏を国后に立てた。信王景逷を江王に移し、鄧王従善を韓王として南都留守とし、弟の従鎰を鄧王、従謙を宜春王、従信を文陽郡公、楚定王の子の従度を昭平郡公に封じた。
- 諸司の四品から九品までで職務のない者に、毎日二名ずつ内殿で待詔させた。右僕射の厳続を司空・同平章事とし、その他も差をつけて位を進めた。
- 中書侍郎の馮延魯を宋へ遣わし、上表して襲位を報告した。正朔を奉じ称号を用いる等の礼はすべて周の旧例に従った。宋帝は詔を賜って答えた。これより詔を下すにあたって名を呼ばなくなった。
- 諸路の屯田使を廃止し、所属の令佐に委ねて常賦とともに徴収させ、租入の十分の一を取って「率分」と称し、俸禄に充てた。朱・膠・牙の税もこれに準じた。
- 秋八月、鄂州の王崇文が卒し、南都巡検使の黄延謙を武昌軍留後とした。
- 九月、宋が鞍轡庫使の梁義を弔祭に遣わし、絹三千匹を賻贈した。
- 冬十月、韓王従善を司徒兼侍中・諸道兵馬副元帥、鄧王従鎰を司空・南都留守とした。宋が枢密承旨の王文を襲位の祝賀に遣わした。もと元宗は中原に臣従しても帝号を去っただけで他は王者の礼を用いていたが、ここに至って国主ははじめて紫袍に着替えて使者に会い、使者が退くと元の服に戻した。
- 十二月、竜翔軍を置いて水戦を教えた。清源節度使の留従効が子の紹基を遣わして貢いだ。
- この年、宋が昭憲太后を葬ったので、国主は戸部侍郎の韓熙載と太府卿の田霖を会葬に遣わした。
建隆三年(962年)
- 春三月、馮延魯を宋へ遣わして入貢させた。清源節度使・中書令・晋江王の留従効が薨じ、子の紹鎡が自ら留後と称した。
- 夏四月、泉州の将の陳洪進が紹鎡を捕らえて金陵に送り、副使の張漢思を留後に推した。句容尉の張佖が封事を上ったので召して監察御史とした。
- 六月、客省使の翟如璧を宋へ遣わして入貢させ、宋は降卒千人を放って南へ帰した。神武統軍の朱匡業を寧国軍節度使、潤州の林仁肇を神武統軍とした。
- 秋七月、建州の陳誨が卒し、礼部尚書の潘承祐が卒した。宣州の何敬洙を左武衛上将軍として芮国公に封じた。朱匡業を江州の鎮に改め、林仁肇を寧国軍節度使とした。
- 十一月、水部郎中の顧彝を宋へ遣わして入貢させた。壬午、宋が建隆四年の暦を頒布した。
建隆四年(963年)
- 春正月、宋が使者を遣わして羊・馬・駱駝を贈った。
- 三月、宋が出師して荊湖を平定した。国主は使者を軍前に遣わして軍を犒った。
- 夏四月、泉州副使の陳洪進が張漢思を廃して自ら権知軍府と称し、告げてきた。国主はそのまま洪進を清源軍節度使とした。左武衛上将軍の何敬洙が卒した。
- 秋七月、兵部尚書の游簡言を知尚書省とし、右僕射に遷した。宋が詔して、顕徳以来の中朝の将士で江南にいる者、および今の揚州の民で江南に移った者を故地へ帰らせるよう命じた。
- 冬十一月、宋が乾徳と改元した。十二月、国主は宋に上表して、詔書で名を呼ばぬ礼をやめてほしいと乞うたが、聞き入れられなかった。
- もと金陵の殿闕はみな鴟吻を用いていたが、乾徳以後は宋の使者が来ると外し、帰ると元に戻した。
- この年、二つの太陽が触れ合うことがあった。
乾德二年(964年)
- 春三月、はじめて鉄銭を流通させた。十銭につき鉄銭六・銅銭四の割で通用させたが、民間ではやがて鉄銭だけを用い、銅銭は蔵い込んで惜しんで出さなくなった。末年には銅銭一が鉄銭十に相当し、国が滅ぶころには諸郡に積まれた銅銭が六十七万緡にも達した。
- 吏部侍郎・修国史の韓熙載に貢挙を知らせ、進士の王崇古ら九人を及第させた。その後、中書舎人の徐鉉に舒雅ら五人を再審させたが、雅らが応じなかったので、殿に出御して題を出し自ら試験し、中書の官にその事を監督させたところ、五人ともみな落第となった。
- 鄂州の黄延謙が卒し、林仁肇を武昌軍節度使とした。
- 夏五月、宋の文明殿の落成を祝って銀一万両を進めた。
- 秋八月、宋が江北に折博務を置き、商旅が江を渡ることを禁じた。
- 九月、韓熙載を兵部尚書・勤政殿学士承旨とした。子の仲寓を清源郡公、仲宣を宣城郡公に封じた。
- 冬十月甲辰、仲宣が薨じ、岐王を追封した。十一月、国后の周氏が没した。宋が作坊副使の魏丕を弔祭に遣わした。
- このとき左僕射の殷崇義が「貨幣がしばしば変わるのは乱を招くもとです。しかも豪民富商がその資産を保てなくなれば、日ごとに乱を思うようになります」と数百言にわたって上言したが、返答はなかった。
乾德三年(965年)
- 春正月壬午、昭恵后を懿陵に葬った。江州の朱匡業を神武統軍・侍衛都軍使、虔州留後の柴克貞を奉化軍節度使とした。
- 夏五月、司空・同平章事の厳続を罷めて鎮海軍節度使とした。
- 秋九月、砂が降った。聖尊后の鍾氏が没した。南都留守の鄧王従鎰を都に召し戻し、鄂州の林仁肇を南都留守・南昌尹とした。
- 冬十月、宋が染院使の李光図を弔祭に遣わした。この冬、光穆皇后を順陵に葬った。使者を遣わして宋に銀二万両、金銀の竜鳳の茶器・酒器数百点を献じた。
乾德四年(966年)
- 夏五月、吉州刺史の楊守忠を武昌軍留後とした。
- 秋八月、龔慎儀に書を持たせて南漢に遣わし、ともに中朝に仕えようと約させた。九月、慎儀は番禺に至って捕らえられた。
- 冬十月、神武統軍の朱匡業が卒した。十二月、司空の厳続が卒した。
乾德五年(967年)
- 春、両省の侍郎・諫議・給事中・中書舎人・集賢殿学士・勤政殿学士に、交替で光政殿に宿直させ、召して諮問すること、おおむね夜半に及んだ。
開寶元年(968年)
- 春三月戊申、枢密使・右僕射の殷崇義を左僕射・同平章事とした。知制誥の張洎は「崇義は経綸の才ではなく、政権の要にすえるべきではない」と言ったが、聞き入れられなかった。
- 境内が旱となり、宋が米麦十万石を送った。
- 夏、江王景逷が薨じた。
- 冬十一月、周氏を国后に立てた。
開寶二年(969年)
- 春三月、游簡言を左僕射兼門下侍郎・同平章事とした。夏五月、簡言が卒した。
- 冬、国主が青竜山で狩りをし、帰りに大理寺で休み、自ら囚人を調べて許し免じた者が非常に多かった。中書侍郎の韓熙載が「訴訟や獄は有司の職務であり、牢獄は車駕の臨むところではありません。内帑の銭三百万を出して軍資庫の用に充てられますよう」と奏し、国主はこれに従い、「過失を正し誤りを糺すのは熙載の役目である」と言った。
- この年、諸郡の僧に一斉に度牒を与えた。左僕射・同平章事の殷崇義を罷めて鎮海軍節度使・同平章事とした。
開寶三年(970年)
- 春、境内に仏寺を盛んに修めるよう命じた。宝公院を開善道場と改めた。国主と后は僧伽帽をかぶり袈裟を着て仏経を誦し、拝跪して額を地につけること甚だしく、こぶができるほどであった。
- 夏四月、太白が昼に見えた。二つの太陽が触れ合った。
開寶四年(971年)
- 春、使者を宋に遣わし、占城・闍婆・大食国から送られた礼物を貢いだ。
- 夏四月、斉王景達が薨じた。
- 冬十月、国主は宋が南漢を滅ぼして漢陽に兵を駐屯させたと聞いて大いに恐れ、太尉・中書令・韓王の従善を遣わして朝貢させ、「江南国主」と称して、詔書で名を呼ばぬ扱いをやめてほしいと請い、許された。
- ある商人が来て「宋が戦艦数千艘を造って荊南に繋いでいます。ひそかに行って焼き払いましょう」と告げたが、国主は恐れて従わなかった。
開寶五年(972年)
- 春二月、令を下して儀制を下げた。「詔」を「教」と改め、中書省・門下省を左右内史府、尚書省を司会府、御史台を司憲府、翰林院を文館、枢密院を光政院、大理寺を詳刑院、客省を延賓院と改め、官の名称もそれに合わせて改めて中朝を避けた。はじめて殿闕の鴟吻を外し、二度と設けなかった。
- 子弟で王に封じられていた者をみな公に降し、従善を南楚国公、従鎰を江国公、従謙を鄂国公とした。
- 内史舎人の張佖に礼部貢挙を知らせ、進士の楊遂ら三人を及第させた。清耀殿学士の張洎が「佖は多くの才を取りこぼした」と言ったので、国主は洎に再審させ、落第した者から改めて王倫ら五人を及第させた。
- 国主は宋の長春節に銭三十万緡を貢いだ。この月、南都留守の林仁肇を殺した。
- 閏二月癸巳、宋は進奉使の南楚国公従善を泰寧軍節度使とし、汴京に留めて汴陽坊に邸を賜り、国主を入朝させたい意を示した。国主は戸部尚書の馮延魯を遣わして従善の爵命を謝させたが、延魯は汴京で病んで朝見できずに帰った。
開寶六年(973年)
- 夏四月、宋の学士の盧多遜が聘問に来た。
- 五月、国主は宋が兵を起こそうとしていると聞き、使者を遣わして上表し爵命を受けたいと願ったが許されなかった。司空の殷崇義に左右内史の事を知らせた。
- 冬十月、内史舎人の潘佑が上書して切諫した。佑はかねて戸部侍郎の李平と親しく、国主は「事はすべて李平から出ている」と考え、まず平を獄吏に付し、使者を遣わして佑を捕らえさせた。佑は自殺し、平は獄中で縊死した。いずれも一家を外郡に移された。
- この年、江南が飢饉となり、宋が米麦十万斛を送った。廬陵の曽某が妻を娶ろうとしたとき、突然女に変じた。
甲戌歲(開寶七年、974年)
- 秋、使者を遣わして南楚国公従善の帰国を求めたが許されなかった。
- 宋が閤門使の梁迥を遣わし、さりげなく「天子は今冬に柴燎の礼を行われます。国主も助祭に赴かれるがよろしい」と言ったが、国主は答えなかった。
- 宋は改めて知制誥の李穆を国信使として詔を持たせ、「朕は仲冬に円丘で祀りを行う。卿とともに犠牲を検分したいと思う」と伝え、あわせて出師するから早く入朝せよという意を諭した。国主は病と称して辞し、「臣が大朝に仕えるのは宗祀を全うするためです。かようなことになるとは思いませんでした。今は死あるのみです」と言った。
- このとき宋はすでに潁州団練使の曹翰に軍を率いさせて先に江陵へ出し、宣徽南院使の曹彬、侍衛馬軍都虞候の李漢瓊、賓州刺史の田欽祚が水軍を率いて続いて発した。さらに山南東道節度使の潘美、侍衛歩軍都虞候の劉遇、東上閤門使の梁迥に軍を率いさせ、水陸から並び進ませ、国信使の李穆と同じ日に出発させた。
- 冬十月、国主は江国公従鎰を遣わして帛二十万匹・白金二十万斤を貢がせ、さらに起居舎人の潘慎修を遣わして買宴の帛一万匹・銭五百万を貢いだ。城を築き糧を集めて大いに守備を固めた。
- 閏十月、宋軍が池州を落とした。国主はそこで戒厳令を下し、開宝の紀年を去って「甲戌歳」と称した。辛未、宋軍が蕪湖および雄遠軍を落とした。呉越も大挙して常州・潤州を侵した。国主は呉越王に書を送り、「今日わが国がなくなれば、明日そちらがどうしてあり得ましょう。ひとたび天子が地を替えて功に報いれば、王もまた大梁の一介の布衣にすぎません」と述べた。呉越王はその書を宋に上表して差し出した。
- 宋軍が采石磯に至ってわが兵二万を破り、竜驤都虞候の楊収を捕らえ、馬三百匹を獲た。
- これより先、池州の人の樊若水は進士に及第できず、宋の朝廷に赴いて浮橋を架けて軍を渡す策を献じていた。宋は高品の石全振を荊湖へ遣わして黄黒竜船数千艘を造らせ、また大艦に太い竹の綱を載せて荊渚から下らせた。曹彬らの出師にあたり、八作使の郝守濬らに人夫と工匠を率いて架設させた。議者は「古来、大江に浮橋を架けた例はない」と言ったが、まず石脾口で試し、采石に移して三日で完成し、長駆して江を渡り、そのまま金陵に至った。
- 例年、大江は春夏に暴れて増水し、これを「黄花水」と呼んでいたが、宋軍が至ると水はみな縮まって少なくなり、国人は不思議がった。
- 国主は軍旅を皇甫継勲に、機密の事を陳喬・張洎に委ね、また徐元楀と刁衎を内殿伝詔とした。急を告げる警報が昼夜ひっきりなしに届いたが、元楀らはそのつど握りつぶして奏上しなかった。宋軍が城南十里に駐屯し、城門を閉じて城壁を守るようになっても、内庭はまだそれを知らなかった。
- はじめ烈祖が国を建てたとき、資産二千以上の民に一卒を出させて「義軍」と号し、戸籍を分けた者にもう一卒を出させて「新擬生軍」、新たに資産を持った者にも一卒を出させて「新擬軍」、客戸で三丁ある者には一卒を出させて「団軍」と呼んだ。後に「抜山軍」を作った。
- 保大年間には郡県の村社に競渡(舟競争)を許し、毎年端午に官が閲して試し、勝者に綵帛と銀椀を与え、これを「打標」と呼び、舟子の姓名をみな登録していた。ここに至ってそれをすべて狩り集めて兵とし「凌波軍」と号した。
- また民間の雇い人や婿養子を集めて「義勇軍」と号し、豪民を募って私財で無頼・亡命の徒を集めさせて「自在軍」と号し、さらに境内をくまなく調べて老弱を除きすべて募って兵とし「排門軍」と号した。民間ではまた自ら集まって敵を防ぎ、紙を重ねて鎧とし農具を武器として「白甲軍」と号した。
- 合わせて十三等の兵があってみな防戦に当たらせたが、実際は使いものにならず、次々と潰走した。
- この年、金陵の苑中の鹿が人の言葉を発し、牧者を叱って「来年の今日、お前たちは亡霊になっている」と言った。また城楼に神の首が現れ、車輪ほどの大きさで、額に珠があって日月のように輝き、数日して消えた。
- そのころ城外の沿江に大きな楼船が並び、どれにも将軍の号が付いていたが、一艘が突然、雷のような吼え声を上げ、十数里先まで聞こえた。国主は杖罰を下してこれを打たせた。
- また北から鴨や雁が千羽の群れをなして飛来し、城のそばで叫び悲鳴を上げ、落とす糞はどれも白く臭かった。ひと月余りして止んだ。
- また衛士の秦友が寿昌堂の榻に登り、自分の靴をかぶせて坐った。訊問すると乱心して覚めていなかった。識者は「鞋とは履であり、履は李と同音。友は有と同音で、趙は秦と同じ出自だ。李氏は覆って趙氏のものになるのではないか」と言った。
乙亥歲(開寶八年、975年)
- 春二月壬戌、宋軍が金陵の関城を抜いた。
- 三月丁巳、呉越の兵が常州を攻め、権知州事の禹万誠が城を挙げて降った。神衛都指揮使の皇甫継勲を誅した。
- 彗星が五車に現れ、色は白く長さ五尺。夏六月には西方に移って見え、太微を犯し、六十日で消えた。
- 宋軍と呉越の兵が潤州を囲み、留後の劉澄が城を挙げて降った。この報が届くと、その一族を捕らえて誅した。呉越はそのまま宋軍と合流して金陵を囲んだ。
- 秋、鎮南節度使の朱令贇が精兵十五万を率いて救援に赴いた。旌旗も戦艦も盛んで、木を編んで長さ百余丈の筏とし、大艦は千人を収容した。令贇の乗る艦はとりわけ大きく、甲士を擁して大将の旗と鼓を立てた。采石の浮橋を断とうとして皖口に至り、宋軍と遭遇した。火油を注いで北の船を焼こうとしたが、折しも北風が吹いて炎が逆に返り、自軍が焼けて大潰した。令贇と戦櫂都虞候の王暉はいずれも捕らえられた。
- 外の援けが絶えて金陵はいよいよ危うくなった。宋軍は百方から城を攻め、昼夜休まなかった。城中では米一斗が一万銭となり、人は足弱の病にかかって死者が折り重なった。
- 国主は二度にわたり徐鉉らを遣わし、方物を厚く貢いで停戦と祭祀の存続を求めたが、いずれも返答はなかった。
- 冬十一月、白虹が日を貫き、昼が暗くなった。
- 乙未、城が陥落した。将軍の咼彦、馬誠信とその弟の承俊が壮士数百を率いて力戦して死んだ。勤政殿学士の鍾蒨は朝服のまま家に坐り、乱兵が至っても一族そろって死に就き、立ち去らなかった。右内史侍郎の陳喬は死を請うたが許されず、自ら縊れて死んだ。
- 国主は司空・知左右内史事の殷崇義ら四十五人を率い、肌脱ぎになって軍門に降った。
- このとき昇元寺の閣は高さ十丈ほどあり、士大夫や豪民富商の婦女で難を避けて上っていた者が数百人いたが、呉越の兵が火をかけて焼き、哭き声が天を動かした。
- 宋将の曹彬は軍を整えて入城し、国主に「帰朝すれば俸禄には限りがあるのに費用は日々かさむ。今のうちに旅装を厚く整えられよ。ひとたび有司の帳簿に載ってしまえば手が出せなくなる」と諭し、国主が入って旅支度をするのを許した。裨将の梁迥と田欽祚は「もし不慮のことがあれば、咎は誰が負うのか」と強く争ったが、彬は笑って「あの人は降伏して出て来られたのだ。どうして死ねようか」と言った。
- やがて彬は屈強な兵五百を遣わして輜重を渡し場まで運び船に載せさせた。一人の兵が籠を担いで道で躓いたので、彬はその場で斬った。
- 翌年(976年)春正月辛未、汴京に至った。乙亥、曹彬が江南平定の露布を上った。
- 宋の太祖は明徳楼に出御したが、江南が常に正朔を奉じていたことから、有司に露布を宣読させず、国主らに白衣・紗帽で楼下に至って罪を待たせるにとどめ、詔してみな釈放し、差をつけて賜与した。
- 詔に曰く。上天の徳は生を好むことにあり、君たる者の心は垢を含むことを貴ぶ。江南の偽主の李煜は兵を集め塁を高くし、蓄えた企みが日に日に明らかになったので、精鋭を労して征討し、孤城に迫って罪を問うた。危急を聞いてはたびたび招きを示したのに、どうして迷いから復らず、覆亡を自ら招いたのか。昔、唐堯が世を治めるにも丹浦の師があり、夏禹は罪人を憐れんで泣いても防風の罪は赦さなかった。朕は道が荒れたものを包むにあり、恩は殺すことを憎むに推す。かつて騾車で蜀を出た者、青蓋で呉を辞した者があったが、あれらはみな閏位の降君であって中朝の正朔に与らなかった。そこで爵命を頒ち、公侯の列に加えた。爾は実に外臣でありながらわが恩徳に背いた。禅(劉禅)や皓(孫皓)と比べれば同列ではない。とくに拱極の班に昇せ、列侯の号を賜る。優遇の形をとり、過ちはことごとく捨てる。よって光禄大夫・検校太傅・右千牛衛上将軍とし、なお違命侯に封ずる、と。
- 太宗が即位すると、はじめて違命侯の号を去り、特進を加えて隴西郡公に封じた。
- 太平興国二年(977年)、後主が自ら貧窮を訴えたので、宋の太宗は月俸を増給させ、さらに銭三百万を与えた。
- 太宗はあるとき崇文院に行幸して書を観、後主および南漢の後主を召して自由に見せ、後主に「聞けば卿は江南で読書を好んだそうだが、この簡策の多くは卿の旧蔵の物だ。帰朝してからも本は読んでいるか」と言った。後主は頓首して謝した。
- 太平興国三年(978年)七月辛卯、薨じた。享年四十二。この日は七夕であった。後主はこの日に生まれたのだという。太師を贈り、呉王に封じ、洛陽の北邙山に葬った。
人となりと国政
- 後主は生まれつき純粋な孝心があり、元宗に仕えて子の道を尽くし、喪に居っては悲しみに痩せ衰え、杖にすがってようやく起きるほどであった。
- 位を嗣いだ当初は戦役の後を承けて国勢が衰え、国庫は空であったが、ひたすら民を愛することを急務とし、賦を免じ役を止めて民力にゆとりを与えた。中原を尊んで卑屈な態度も厭わず、そのおかげで境内が十余年のあいだ多少とも安らかであった。
- 死刑の判決を論ずるときは多く減刑に従い、有司が強く争ってようやく少し正すという有様で、それでも涙を流してから許した。
- しかし性は奢侈を好み、宮中に金を織り込んだ紅羅の幕を作って壁とし、白金の釘に瑇瑁の押えをつけ、また緑の螺鈿で隔子を飾り、朱の薄絹で覆い、その外に梅の花を植えた。
- 七夕ごとに巧を乞う行事のたび、紅白の羅を百余匹も使って月宮や天の川の形を作らせ、一夜で取り壊してこれを分け与えた。
- 宋に入ってからは鬱々として楽しまず、しばしば金陵の旧宮人に手紙を送ったが、その言葉は悲しみに満ちて堪えがたいものであった。訃報が江南に至ると、父老には路地で哭す者が多かった。
- また平素から仏教に溺れ、僧尼に度牒を与えることは数えきれず、仏を崇めるあまり政務を大いに疎かにした。
- あらためて内苑に澄心堂を置き、文才ある士および徐元楀・元機・元楡・元枢の兄弟をそこに住まわせ、詔命はここから出るようになった。中書と枢密院はかえって閑職と同然になった。
- 戦役が起こってからは、御札を下して将帥を移動させても大臣は誰も知らなかった。皇甫継勲が誅殺された後、夜に一万人を出して敵陣を斬り込ませたときも、招討使はただ牒に署名しただけで、どこへ兵を出したのかも知らなかった。すべて澄心堂が直に宣命を伝えていたからである。
- 包囲が完成して内外が隔絶し、城中は恐怖に死に場所もない有様であったが、後主はちょうど浄居室に行幸して、沙門の徳明・雲真・義倫・崇節に『楞厳経』『円覚経』を講じさせていた。鄱陽の隠士の周惟簡を文館詩易侍講学士とし、後苑に招いて『易』の否卦を講じさせ、惟簡に金紫を賜った。
- 国中の誰もが滅亡が旦夕に迫っていると知っているのに、光政副使の張洎はなお「北の軍はすでに疲れており、自ら退き去るでしょう」と言い、後主はますますその言葉を心地よく思って安閑としていた。
- 戸部員外郎の伍喬に命じて、包囲された城の中で進士の孫確ら三十八人を及第させた。その施策の多くはこの類であった。
- 南唐は丁酉の年(937年)に烈祖が昇元と改元してから、後主の乙亥の年(975年)に国が滅ぶまで、三主を歴て三十九年であった。
- はじめ江南の民間で服飾や玩物の贅沢なものを尋ねると、必ず「これは趙宝子のもの」と答えた。後主の時代には宮中で雨水を貯め、それで薄い碧に染めた水を「天水碧」と呼んだ。趙は宋の姓、宝は宋の年号、天水は趙の本貫である。宋に帰属してから、人々はそれが前兆であったと悟った。
- また後主はかつて「念家山破」と「振金鈴曲」を作らせたが、その音は切迫して哀しく、歌詞にも不吉なものが多かった。
- また潯陽に大きな堤ほどの姿で長さ数十丈の海鰌が現れ、その肉を食べた者は多く死んだ。脇の骨は橋にされ、背骨は臼にされた。識者は「鰌は鯉の類だ。それが死んだからには国も滅びよう」と言った。
- 建隆の初め、汴京の士庶や楽工の少年が競って「五来子」という歌をうたった。建隆以後、荊湖・蜀・漢および江南の五国が、はたしてことごとく宋に朝することになった。
- また開宝年間、江南で一つの石が見つかり、数百字が隷書で刻まれ、「従他痛」の三字を連ねて書き、末尾に「石子を為さずして尽く」とあった。いずれもその予言であった。
- これより先、元宗の保大年間に伏亀山が崩れ、長さ二尺・幅八寸の石函が出た。中に鉄の銘があり、「惟れ天監十四年秋八月、宝公をここに葬る」とあった。その銘の序に、宝公はかつて偈を作って大字で板に書き、帛で覆っていた、当時の名士の陸倕・王鈞・姚察以下も誰もその意味を解せず、問うと「五百年後のことだ」と答えた、没するときその銘を一緒に葬った、とあった。
- 銘に曰く。「江南の事を問うなかれ、江南には自ら馮あり。鶏に乗じて宝位に登り、犬を跨いで金陵を出づ。子建は南位を司り、安仁は夜の灯を秉る。東隣 家道闕け、虎に随いて明徴に遇う」。字はみな小篆で書体もそなわっていたが、徐鉉・徐鍇・韓熙載も解けなかった。
- 後主が宋に降ってから、好事家は次のように解いた。後主は丁酉の年に生まれ、また辛酉の年に位を嗣いだから「鶏に乗ず」である。開宝甲戌の年に宋軍が金陵を囲んだのが「犬を跨ぐ」である。囲城のとき曹彬が南に陣したのが「子建」(曹植の字)、潘美が北に陣したのが「安仁」(潘岳の字)である。その後に呉越の忠懿王が国を挙げて入朝したのが「東隣」で、「家道闕く」は銭がないという意である。「虎に随う」は戊寅の年のことで、また忠懿王の小字が虎子であった。当時これは完璧な解釈とされた。
史論
- 論に曰く。後主は温和で雅趣に富み、姿は美しく学識も深かった。もし国事に憂いがなく、心中に慎み励むところがあったなら、国を守る主とはなりえたであろう。
- しかし時運は最悪の時に当たり、それでも安閑として奢りにふけり、曲を作り僧を得度させて一日も欠かさなかった。ついに都は失われ、涙を流して嘆く身となった。
- 長城公(陳後主)の「玉樹後庭花」や、身を仏寺に売って国を亡ぼした(梁の武帝の)例と、なんと前後同じ轍を踏んだことか。悲しいことだ。