十国春秋十國春秋卷十五 南唐一 烈祖本紀(李昪、字は正倫)
徐州彭城の微賤な家に生まれた李昪(字は正倫、小字は彭奴、888年–943年)。孤児となったところを呉の太祖楊行密に見出され、大将徐温の養子となって徐知誥と名乗った。徐氏のもとで昇州・潤州を治めて人心を得、徐知訓の死後は呉の国政を握り、ついに斉王として呉の禅譲を受けた。のち国号を大唐(南唐)と改め李姓に復し、兵をみだりに動かさず民を休ませた南唐の建国者・烈祖である。
年表(20件)
- 光啓四年十二月二日888年彭城に生まれる
- 乾寧二年895年濠州で楊行密に見出され、徐温に与えられて徐知誥と改名
- 天祐六年909年昇州防遏使兼楼船軍使に転じ、昇州で戦艦を整備する
- 天祐九年912年宣州平定の功で昇州刺史に進み、清廉な政治で士人を集める
- 天祐十四年917年徐温が昇州へ本拠を移し、知誥は潤州団練使に移される
- 天祐十五年918年徐知訓の死に際し広陵に入って乱を鎮め、淮南節度行軍副使となる
- 武義元年919年左僕射・参知政事を拝し、国人から「政事僕射」と呼ばれる
- 太和三年931年太尉・中書令として金陵に出鎮し、子の景通を都に留めて輔政させる
- 天祚元年935年尚父・大丞相・天下兵馬大元帥を加えられ、斉王に進封される
- 昇元元年937年呉主の禅譲を受けて皇帝の位に即き、国号を大斉と定める
- 昇元二年938年譲皇楊溥を丹楊宮に移し、十二月にその訃を受けて素服で哀悼する
- 昇元二年938年太学を立て、礼楽の刪定を命じる
- 昇元三年939年国号を大唐と改めて李姓に復し、名を昪と定める
- 昇元三年939年南郊で祭祀して高祖神堯皇帝を配し、大赦して植桑・開墾を奨励
- 昇元四年940年晋の李金全を迎えて安州に出兵したが敗れ、李承裕らを失う
- 昇元四年940年斉王璟を皇太子に立てようとするが、固辞されて聞き入れる
- 昇元四年940年東都へ行幸し、斉王璟に監国を命じる
- 昇元五年941年宰相の李建勲を罷めて私第に帰らせる
- 昇元六年942年「昇元刪定条」を頒布し、儒吏の挙用と苛政の除去を詔する
- 昇元七年943年方士の金丹を服して背に疽を発し、昇元殿で崩ずる。享年五十六
出自と生い立ち
- 烈祖は姓を李、名を昪、字を正倫、小字を彭奴といい、徐州の人である。家系はもともと微賤であった。
- 父の李栄は慎み深く篤実な性格で、仏門の徒と交わるのを好み、寺院に身を隠していたので、当時「李道者」と呼ばれた。
- 彭奴は唐の光啓四年十二月二日(888年)、彭城で生まれた。
- 六歳で父を失い、乱に遭って伯父の李球に連れられて濠州へ移った。まもなく母の劉氏も没したので、濠州の開元寺に身を寄せた。
- 乾寧二年(895年)、呉の太祖・楊行密が濠州を攻めた際に彼を得、その容貌を非凡と見て養子とした。だが楊氏の諸子が兄弟として遇さなかったため、太祖は大将の徐温に与え、「この子は並の相ではない。楊渥らはついに容れまいから、そなたにやるのだ」と言った。こうして徐姓を冒し、名を知誥と改めた。
- 徐温はかつて水中に十数頭の黄龍がおり、そのうち一頭を捕らえたところで目覚めるという夢を見た。翌日に知誥を得たので大いに喜んだという。
徐氏のもとでの台頭
- 知誥は天性聡明で、徐温に仕えて子の道を尽くした。徐温の妻の李氏も同姓のよしみでこまやかに養育した。
- 徐温に従って外出し、意に添わぬことがあると杖で打たれて追い出されたが、帰宅すると門前に出迎えた。徐温が「まだここにいたのか」と驚くと、知誥は「子たる者が父母のもとを離れてどこへ行けましょう。父が怒れば母のもとへ帰るのが常です」と答えた。徐温はこれによって彼を愛した。
- 成人すると身の丈七尺、額は張り鼻梁は高く、上体が長く下体が短く、声は鐘のようであった。ゆっくり歩いても、従う者は駆けても追いつけない。人相見は「これぞ龍行虎歩の相」と評した。
- 徐温が病むと妻とともに朝夕そばを離れず看護したので、徐温はいよいよ実子同様に遇し、家の事務を取り仕切らせた。呉の太祖も徐温に「知誥は傑物だ。諸将の子は誰も及ばない」と言った。
- 天祐六年(909年)六月、元従指揮使から昇州防遏使兼楼船軍使に転じ、昇州で戦艦を整備した。
- 天祐七年(910年)五月、昇州副使・知州事を授かる。
- 天祐九年(912年)、柴再用の副将として宣州を平定し、その功で昇州刺史に進んだ。当時、江淮は平定されたばかりで、州県の官は戦備のための徴税に汲々としていたが、知誥ひとりは清廉有能な者を褒賞し、農桑を奨励し、散逸した書物を求め、賓客を招いて身を低くして接した。倹約を旨としつつ財を惜しまず施した。
- 賓客に宋斉丘・王令謀・王翃・曽禹・張洽・徐融を、側近の吏に馬仁裕・周宗・曹悰を用いた。
- 天祐十一年(914年)、検校司徒を加えられ、昇州に城壁を築き始めた。
- 天祐十四年(917年)夏、城が完成した。徐温が視察に来てその壮麗な造りを喜び、自ら昇州へ本拠を移した。知誥は検校太保・潤州団練使に移された。知誥は行きたがらず何度も宣州を望んだが許されなかった。しかし徐温の子の知訓が内外馬歩都軍副使として揚州を専制し、驕り乱れて人心を失っていたため、宋斉丘が「知訓は遠からず身を滅ぼす。この転任こそ天の助けだ」と説き、知誥は赴任した。
- 天祐十五年(918年)、朱瑾が徐知訓を殺した。馬仁裕が蒜山から渡って急報すると、知誥はその日のうちに潤州の兵を率いて広陵に入り乱を鎮め、知訓に代わって淮南節度行軍副使・内外馬歩都軍副使となった。
- 政務は勤倹寛簡で、知訓のやり方をことごとく改めた。人を遣って民間を調べさせ、婚礼や葬儀に窮する者があればしばしば援助した。真夏でも傘や扇を用いず、側近が傘を差し出すと「兵たちの多くはなお野ざらしだ。私がどうしてこれを使えようか」と退けた。そのため徐温が遠くから大政を握ってはいても、呉の人心はすでに知誥に帰していた。
- 武義元年(919年)、左僕射・参知政事を拝した。国人は彼を「政事僕射」と呼んだ。
- 知誥は役所の中に亭を建てて「延賓」と名づけ、多くの士人を迎え、宋斉丘に記文を書かせた。これによって豪傑が続々と帰服した。政務の合間には自ら宴席を設けて欠点を尋ね、民の苦しみを問い、夜半に及んで散会した。
- 当時、中原は多難で、名士や旧家の長老がこぞって南へ逃れてきた。知誥はあらかじめ人を淮水沿いに置いて厚く旅費を与え、到着すれば爵禄で繋ぎとめたので、北方の士人が噂を聞いて来訪しない日はなかった。
- 順義年間(921–927年)初め、同平章事を加えられ江州観察使を領した。まもなく江州が奉化軍とされると、そのまま節度使を領した。
- 徐玠という者が徐温に金陵行軍司馬として仕え、揣摩捭闔の術に長け、しきりに徐温へ「実子の知詢に政治を輔けさせるべきで、他姓の者に委ねるべきではない」と勧めた。知誥はこれを察知して恐れ、政事を辞して江西に鎮したいと上表しようとしたが、上表前に徐温が危篤となり沙汰止みとなった。
- 徐温の死後、徐知詢が金陵節度使・諸道副都統を継ぎ、しばしば知誥と権を争った。知誥は人を遣って知詢を入朝させ、左統軍に留めてその兵権をことごとく奪った。知誥は都督中外諸軍事を加えられ、潯陽公に封じられた。のち豫章公に改封。
- 太和三年(931年)、太尉・中書令として鎮海・寧国諸軍節度使を領し、徐温の先例にならって金陵に出鎮した。子の景通を司徒・同平章事として都に留め、王令謀・宋斉丘を左右僕射・同平章事とした。
- まもなく東海郡王に封ぜられた。天祚元年(935年)、尚父・太師・大丞相・天下兵馬大元帥を加えられ斉王に進封、昇州・潤州など十州を斉国とされた。のち尚父・丞相の殊礼は辞退した。
- 天祚二年(936年)、大元帥府を開いて僚属を置いた。閩・呉ら諸国はみな使者を送って即位を勧めた。
昇元元年(937年)
- 春三月、王は名を「誥」と改めた。
- 冬十月、呉主が王に位を禅った。甲申、王は皇帝の位に即き、呉の天祚三年を昇元元年と改め、国号を大斉とした。十二月二日を仁寿節と定めた。この日、白い雀が中庭に舞った。
- 乙酉、呉主を高尚思玄弘古譲皇帝と尊び、冊書に「受禅老臣誥」と称した。亡父の徐温を太祖武皇帝と追尊した。
- 丙戌、呉の平章事張延翰を右僕射兼門下侍郎・同平章事とし、呉の門下侍郎張居詠・中書侍郎李建勲をいずれも同平章事とした。建康を西都、広陵を東都とし、尚書省を尚書都省、東都尚書省を留守院と改め、斉明門を朝元門と改めた。
- 丁亥、弟の徐知証を江王、知諤を饒王に封じた。戊子、呉の太子楊璉を弘農郡公に降した。辛卯、呉の建安王楊珙・江夏王楊璘ら十一人の爵を一等下げ、代わりに官を加え封邑を増した。訴訟は所轄で判決を経ないまま闕下に訴え出ることを禁じた。
- 甲午、王后の宋氏を皇后に立てた。乙未、呉の公主を国君に降した。丙申、妹の杞国君を広徳長公主に封じた。丁酉、宋斉丘に大司徒を加えた。
- 庚子、漢・閩・呉越・荊南へ使者を遣わして即位を告げた。辛丑、呉の歴陽公楊濛を臨川王に追封して霊と諡し、礼をもって改葬した。
- 戊申、皇子の景通を諸道副元帥・判六軍諸衛事・太尉・尚書令とし、呉王に封じた。
- 十一月庚戌朔、東都の旧地を崇徳宮と改めた。癸丑、承宣院を宣徽院と改めた。乙卯、呉王景通の名を璟と改めた。丙辰、亡き妃の魏国君王氏を順妃と追冊した。
- 丁巳、次子の景遷を高平郡王、長女を豊城公主と追封し、辞状司を清訟院と改めた。甥の景邁を晋陵郡公、景遜を上饒郡公、景邈を桂陽郡公、景逸を平陽郡公に封じ、五人の娘を盛唐・太和・永興・建昌・玉山の公主に封じた。
- 戊午、子の景遂を吉王、景達を寿陽郡公に封じ、景遂を東都留守・江都尹として留司の百官を率いて東都へ赴かせた。
- 己未、東都の海陵県を昇格させて泰州とし、塩城・泰興・如皋・興化の各県を属させ、海陵制置使の褚規を刺史とした。
- 丁卯、荊南の高従誨が建康に邸を置きたいと願い出たので許した。己巳、呉越が将軍の袁韜を遣わして即位を祝賀した。乙亥、亡き高平王景遷の妻楊氏を燕国君に追封した。
- 十二月己卯朔、白虹が二本現れた。庚寅、太祖武皇帝の陵を定陵とした。高祖以下を追尊してみな公・王としつつ「宗」と称し、その配偶はみな国君・妃と称し、墓はみな陵と称した。ただし武皇帝の妃の李氏だけは明徳皇后とした。
- 丙午、北方に彗星が現れた。このころ余干の民が、母が子を抱いたまま地に落としたのに怒って刃で母を斬りつけたところ、刃が届く前に母の腰から下が地中に陥没した。帝は幅広の刃の鏟を作らせて掘り出させた。
昇元二年(938年)
- 春正月己酉朔、日食があり、帝は正殿を避け朝賀を停めた。徳勝節度使兼中書令・西平王の周本が薨じた。
- 甲子、荊南の使者龐守規が即位を祝賀に来た。丙寅、侍中・吉王景遂に尚書都省の参判を命じた。甲戌、三品以上の臣僚には父母を、将相には三代を追贈するよう詔した。
- 二月壬戌、閩の使者・内客省使の朱文進が即位を祝賀に来た。
- 三月壬子、白虹が二本現れた。壬申、大きな星が東方に流れた。
- 夏四月、譲皇(楊溥)がしきりに転居を願い出、南平王の李徳誠らも漢・隋の先例を引いて同じ請願をした。
- 五月戊午、潤州の牙城を丹楊宮と改め、平章事の李建勲を迎譲皇使とした。己未、漢の使者・集賢殿学士の鄒禹謀が即位を祝賀に来た。
- 壬戌、左宣威副統軍の王輿を鎮海軍留後、客省使の公孫圭を監軍使、側近の吏である馬思譲を丹楊宮使とし、譲皇を丹楊宮に移して厳重に警護させた。
- 丁卯、広済倉が火災に遭い米三十万石を焼いた。渾天儀を作らせた。
- 六月庚辰、月が太微垣の西華門に入り右執法星を犯した。辛巳、東垣の上相星を犯した。壬午、毒酒の処方を献じる者があったが、帝は「犯法には常刑がある。こんな物を何に使うのか」と退けた。
- 東都留守判官の楊嗣が姓を「羊」に改めたいと請い、群臣も府寺州県の名で「呉」や「陽」を含むものを改めよと請うたが、帝は許さなかった。ただし呉興閣を昇元閣、瓦宮寺を昇元寺と改めるよう詔した。
- 甲申、池州を昇格させて康化軍とした。この月、高麗が使者の正朝・広評侍郎柳勲律を遣わして方物を貢いだ。帝は武功殿に出御し細仗を設けて受け、学士承旨の孫晟に命じて崇英殿でその使者をもてなし、亀茲楽を奏し番戯を演じて興を添えた。
- 秋七月壬申、左丞相の宋斉丘を平章事とした。
- 八月戊寅、洪州の瀟灘鎮を清江県に昇格させ、州には属させなかった。丁亥、契丹主が美楞訥哷庫を遣わして聘問した。
- 九月壬戌、太府卿の趙可封が、帝に李姓へ復して唐の宗廟を立てるよう請うたが許されなかった。
- 冬十月丙子、太学を立て、礼楽の刪定を命じた。癸未、新羅が朝貢に来た。壬辰、呉王璟に歩騎八万を率いさせ銅駝橋で講武させた。まもなく璟を斉王に改封した。
- 十二月辛丑、譲皇が没した。訃報が届くと二十七日間政務を執らず、百官を率いて素服で哀悼した。
- この年、契丹主の弟の東丹王もまた使者を遣わし羊馬を貢いだ。別に羊三万頭・馬二百匹を売りに来て、その代金で羅・紈・茶・薬を買い求めた。そこで翰林院が「二丹入貢図」を進め、中書舎人の江文蔚に賛を作らせてこれを称えた。
昇元三年(939年)
- 春正月庚戌、江王徐知証・饒王徐知諤が、帝に李姓へ復するよう上表したが許されなかった。
- 癸亥、左丞相の宋斉丘、平章事の張居詠・李建勲、枢密使・同平章事の周宗らが復姓を上表した。帝は謙遜して徐氏の恩を忘れがたいとした。甲子、百官の議に付し、乙丑、宋斉丘らが「請願のとおりにすべし」と議して、これに従った。
- これより先、江南の童謡に「東海の鯉魚 飛びて天に上る」とあった。鯉は李、東海は徐の望(本貫)であり、李氏が徐氏から起こって君主となることを言ったもので、ここに至って的中したとされた。またこのころ江西で楊が李に変わり、臨川では李の木が連理を生じたので、人々は本宗に復する兆と見た。
- 丙寅から壬申にかけ、斉王璟らが三度にわたり「応乾紹聖文武孝明皇帝」の尊号を奉ろうとしたが、帝は「尊号は虚飾であり古の制でもない」として受けなかった。
- 詔して、戦乱が続いて田は荒れ桑は枯れ、衣食が日々乏しくなっているのを憐れみ、教化を慕って帰順してくる民には土地を授け、三年間の租役を免除するとした。
- 二月乙亥、太祖の廟号を義祖と改めた。己卯、帝は興祥殿に出御して国号を大唐と改め、李姓に復した。亡父母のために発哀し、皇后とともに斬衰を着て廬に居り、喪の始めの礼のようにした。父母それぞれの喪に二十七日、あわせて五十四日間政務を執らず、朝夕に哭した。
- 辛巳、国事を斉王璟に委ねると詔し、軍事だけを奏聞させることとした。群臣が強く諫めたので、墨縗のまま政務を聴くと詔した。江王知証・饒王知諤も斬衰を着たいと請うたが許されなかった。広徳長公主は衰絰を借りて入り哭し、父母の喪と同様に礼を尽くした。
- 帝ははじめ名を「昂」に改めようとしたが文宗の諱に触れるので「晃」とした。ところがそれは朱全忠の名だという者があり、さらに「坦」と改めたが、御史の王鵠が「字が旦に従い睿宗の諱に触れる」と言った。庚寅、名を「昪」と改めると詔した。
- 二祚(唐の皇統と徐氏の系統)を合わせて祀る礼を議せと詔した。辛卯、宋斉丘らは義祖を七室の東に置くと議したが、帝は高祖を西室に、太宗をその次に、義祖をさらにその次に置き、いずれも不祧の主(永久に遷さない位牌)とせよと命じた。群臣は「義祖は諸侯であり高祖・太宗と同列に祀るべきでない。太廟正殿の後ろに別廟を建てて祀るべきだ」と言ったが、帝は「私は幼少より義祖に身を託した。義祖なくして中興の業を開けたであろうか」と答えた。
- 帝は呉王李恪を始祖にしようとしたが、恪は誅殺されたので鄭王元懿のほうがよいという意見もあった。帝は有司に二王の子孫を調べさせ、呉王の孫の李禕に功があり、禕の子の李峴が宰相であったことから、呉王を始祖とした。李峴から五世で父の李栄に至るとし、栄の父を志、志の父を超(早世)、志は徐州判官として在任中に没した、とした。これらの名はおおむね有司の作文である。
- 帝はまた、唐が十九帝三百年を経ているのに十世では少なすぎると疑ったが、有司が「三十年を一世とします。陛下は文徳年間の生まれで、すでに五十年です」と答えたので、これに従った。
- 甲午、月が南斗の第六星を犯した。乙未、契丹の使者赫嚕が来て、契丹主は兄の礼をもって帝に接した。蜀の使者も即位を祝賀に来た。
- 三月庚戌、高祖の呉王恪を定宗孝静皇帝、その貞妃程氏を貞静皇后、曽祖の超を成宗孝平皇帝、その配の崔氏を平貞皇后、祖の志を恵宗孝安皇帝、その配の盧氏を安荘皇后、父の栄を慶宗孝徳皇帝、その配の劉氏を徳恭皇后と追尊した。
- 庚午、南郊の行宮千間を造り、公卿以下に郊祀の制を議定するよう詔した。平章事の張居詠・李建勲らは、孔子の「郊に后稷を祀りて天に配し、明堂に文王を宗祀して上帝に配す」の語と、長孫無忌が高祖を円丘で昊天上帝に配し太宗を明堂で上帝に配せと請うた先例を引き、いま唐の祚を継いだ以上、神堯(高祖)を円丘で天に配し、孝徳皇帝を明堂で上帝に配すべきだと議し、服物制度は古の常儀に従い一切の偽飾を廃せと奏し、裁可された。
- 大司徒の宋斉丘は『春秋』にならって四月上辛の日に郊祀せよと請うたが、礼部員外郎の常夢錫は「礼では天子の郊は冬至で日を占わない。魯侯の郊が仲春で上辛を占ったのだ。今の四月は郊の時ではない」と反駁した。斉丘が強硬に争ったので夏四月を用いることになり、識者は苦笑した。
- 詔して「礼は天を祀るより重いものはなく、孝は親を尊ぶより重いものはない。事は重大で、軽々しい身でこれに当たるのは畏れ多い。公卿諸侯はそれぞれ職を尽くせ。務めを果たさぬ者には国の常典がある」とした。
- 夏四月庚辰、太廟に朝享した。辛巳、南郊で祭祀を行い、高祖神堯皇帝を配した。この夜、月は子の初刻に沈むはずであったが、壇に登るときなお昼のように明るく、人々は皆これを不思議とした。
- 癸未、境内に大赦し、百官の位を進め、将士に労賜を差をつけて与えた。三年のうちに桑を三千本以上植えた民には帛五十匹、一丁につき八十畝以上を開墾した者には銭二万を賜り、いずれも五年間租税を取らないこととした。
- 群臣が尊号を請うと、詔して「朕は微身をもって民の上に託され、常に不徳にして高祖・太宗の遺業を墜とすことを恐れている。公卿士がなお尊号を奉ろうとするのを、朕は取らない。二度と言上するな」とした。
- 州郡から祥瑞を報じる者が十数件あったが、帝は「天の譴告は天にあり、聡明は民に由る。魯は麟によって削られ、王莽は符瑞によって滅びた。常に天の戒めを慎んでもなお過ちを恐れる。符瑞が何になろうか」と言った。
- 江王徐知証らが李姓に連なりたいと請うたが許されなかった。戊子、李徳誠を趙王、徐知証を韓王、知諤を梁王に進封した。
- 五月辛亥、景遂を寿王に移し、景達を宣城王に立てた。乙卯、鎮海節度使兼中書令・梁王の徐知諤が薨じた。詔して譲皇の一族を泰州に移し、永寧宮と号して厳重に警護した。康化節度使の楊珙は病と称して永寧宮に帰った。乙丑、楊璉を康化軍節度使に改めたが、璉は固辞して喪を終えたいと請い、許された。
- 丙寅、斉王璟を諸道兵馬大元帥・判六軍諸衛・守太尉・録尚書事・昇揚二州牧とした。帝は璟を太子に立てようとしたが、璟が固辞したためこの措置となった。
- 丁未、呉越の使者・左武衛上将軍の沈韜文、荊南の高崇誨の使者王崇嗣が南郊を祝賀に来た。この月、玄武湖の西に北郊を造った。熒惑が月を犯した。
- 秋七月丙午、諸州から献じられた珍禽奇獣を鍾山に放った。有司に命じて「昇元格」を作らせ、呉の令と併用して内外に遵守させた。甲寅、木星が昼に見えた。五月から閏七月まで雨が降らなかった。
- 八月、武昌節度使の張宣が卒し、潤州留後の王輿を後任とした。金吾衛大将軍の馬仁裕が鎮海軍留後として出た。
- 冬十月丁丑、後楼に出御して戦馬を閲した。
- この年、高麗が再び広評侍郎の柳勲律を遣わして朝貢した。有司が五代同居の家として江州の陳氏以下七家を報告し、詔して門閭を旌表し、その家の課役を免じた。
昇元四年(940年)
- 春正月、営造の力役を停め、農時を妨げぬよう詔した。
- 三月丁未、中正暦を頒布した。暦官の陳承勲の撰である。丙戌、漢と閩の使者が聘問に来た。
- 夏四月、枢密使の周宗が奉化軍節度使として出た。
- 五月、晋の安遠節度使の李金全が降伏を請うたので、鄂州屯営使の李承裕・段処恭に兵三千を率いて迎えに行かせた。癸卯、承裕が安州に入って拠った。甲辰、晋の馬全節が城南で承裕を破った。承裕は安州を掠奪して南へ走った。丙午、晋の安審暉が黄花谷でわが軍を追撃して破り、段処恭が戦死した。丁未、また雲夢でわが軍を破り、承裕と都監の杜光鄴を捕らえた。まもなく晋は承裕および士卒千五百人を斬り、光鄴を送り返したが、帝は受け取りを拒んだ。
- 客省使の尚全恭を閩へ遣わし、閩主の王曦および王延政を祝賀させた。
- 六月癸亥、宣州の毎年の木瓜・雑果の貢納を廃した。太師・中書令・趙王の李徳誠が薨じた。徐玠を鎮南軍節度使とした。李金全が西都に至ったが、帝の待遇は薄く、宣威統軍に任じただけであった。
- 秋八月、廬州の李章が卒し、潤州の馬仁裕を後任とした。天威統軍の盧文進を鎮海軍節度使とした。
- 丁巳、斉王璟を皇太子に立て、大元帥・録尚書事を兼ねさせたが、璟が固辞したので聞き入れた。
- 九月乙丑、内外の上申文書は斉王に対しても太子の礼に準じて牋を用いるよう詔した。丁卯、月が木星を隠した。戊辰、契丹の使者美楞魯庫密拉が聘問に来て狐白裘を献じた。
- 冬十月癸巳朔、熒惑・填星・歳星が南斗に集まった。壬寅、斉王璟が儲位を辞退したことにより、死罪以下を赦し、京師で酒宴を賜り、内外の諸軍に優給した。上表に「聖睿」の二字を用いることを禁じ、違反者は大不敬として論ずるとした。
- 術士の孫智永が「四星が斗に集まったのは、その分野に災いがある兆」として東巡を勧めた。乙巳、東都へ行幸すると詔し、斉王璟に監国を命じた。丙午、泰州刺史の褚仁規を罷めて扈駕都部署とした。光政副使・太僕少卿の陳覚が私怨から仁規は在州中に貪欲残虐であったと讒言したためである。
- 庚戌、帝は保徳門から船に乗った。辛亥、迎鑾鎮に泊まった。甲寅、東都に至り建元門に入ると、往時を思って涙を流した。丁巳、東畿の自活できない士民を慰問させた。己未、高麗の使者・広評侍郎の柳兢質が方物を貢いだ。
- 十一月乙丑、崇徳宮で群臣に宴を賜った。旧邸である。その庁舎を光慶殿とした。
- 庚辰、東都の文明殿を乾元殿、英武殿を明光殿、応乾殿を垂拱殿、朝陽殿を福昌殿、積慶宮を崇道宮、西都の崇英殿を延英殿と改め、凝華内殿の前を昇元殿、後ろを雍和殿、興祥殿を昭徳殿、積慶殿を穆清殿と改めた。
- 乙酉、東畿の高齢者・病者・身寄りのない者に一人あたり米二斛を賜った。漢の都官郎中鄭翺、閩の客省使葛裕、呉越の刑部尚書楊巌が仁寿節を祝賀に来た。
- 帝はそのまま東都に居ようとしたが、水が凍って漕運が続かないため帰還した。十二月丙申、東都から戻った。右僕射兼門下侍郎・同平章事の張延翰が卒した。契丹主が使者を遣わして馬百匹を献じた。
- このころ白鹿洞に学館を建て、田を置いて学生を養い、李善道を洞主として教育に当たらせ、廬山国学と号した。吉州の民の龍民は穀物が売れないので神祠に祈って旱を求め、雷に打たれて死んだ。
昇元五年(941年)
- 春二月己未、前の泰州刺史の褚仁規を殺した。
- 夏四月、陳覚と常夢錫を宣徽副使とした。通事舎人・副四方館事の欧陽遇を契丹へ遣わそうとしたが(鴻臚少卿の秩を仮に授けた)、晋に道を借りられず、国境まで行って引き返した。
- この月、漢が使者を送って楚を討ってその地を折半しようと約したが、帝は許さなかった。
- 秋七月戊辰、詔して「右僕射兼中書侍郎・同平章事・監修国史の李建勲は、幸いにも宰相の地位にあり、かつ外戚の列にも連なりながら、紀律に従わず、あえて典章を汚した。よって罷めて私第に帰らせる」とした。
- 呉越で大火があり、群臣はその弱みに乗じれば志を得られると請うたが、帝は「どうして他人の災いにつけこめようか」と言い、使者に金帛を厚く持たせて見舞わせた。
- 八月、天市垣に彗星が現れ、長さ数尺、七十日で消えた。使者を遣わして旱害を受けた黄州の戸口に賑貸した。
- 冬十一月、民田の税を定めた。
- 内侍の王紹顔が「今春以来、罪を得た群臣が多く、内外が疑い恐れています」と上書した。帝は自ら詔を書いて釈明し、紹顔に内外へ告諭させた。
- この年、呉越の水害で民が国境内に食を求めて来たので、使者を遣わして賑恤し安置した。またこのころ于闐国が瑞玉の天王像を貢いだ。
昇元六年(942年)
- 春正月甲子、月が填星を犯し、逆行して畢宿にあった。
- 閏正月甲申朔、天長制置使を建武軍と改めた。庚寅、漢の使者区延保が聘問に来た。癸巳、閩の尚食使林弘嗣が聘問に来た。都下は大水となり秦淮が溢れ、東都では火災で数千家が焼けた。
- 二月、侍中・寿王景遂の尚書省の判を解き、改めて中書省・門下省を領させた。己丑、左丞相・太保の宋斉丘に尚書省の事を知らせた。はじめ斉丘はしきりに政務への参与を求め、中書に入って執務することを許され、また両省の事務の多くが給事・舎人に委ねられ、繁務が尚書省にあることから省事を知りたいと求め、これも許された。三省の事はいずれも斉王璟が参決することとした。
- 三月、廬州の馬仁裕が卒し、滁州刺史の周鄴を保信軍節度留後とした。
- 夏四月、寿州の高思審が卒し、侍衛諸軍都虞侯の姚景を清淮軍節度使とした。宋斉丘が病と称して省事の解任を請い、聞き入れられた。
- 五月丙午、宋斉丘を鎮南軍節度使として出した。洪州の徐玠を司徒・侍中とした。帝は「豫章は大司徒の故郷である。錦を着て昼に行くのは古人の貴んだところだ」と言い、錦の袍を賜った。斉丘は任地でこれを着て執務した。
- 六月、常州・宣州・歙州の三州で大雨があり水が溢れた。漢の使者蕭規が国喪を告げに来たので三日間朝を廃した。庚午、契丹の使者魯庫密拉が聘問し馬五駟を献じた。淮北から蝗の大群が空を覆って飛来した。辛未、州県に蝗を捕らえて埋めるよう命じた。庚辰、熒惑が房宿の次将星を犯した。辛巳、節度使・刺史が代理任命の辞令を出すことを禁じた。
- 秋八月甲申、漢の法物使公孫恵が襲位を告げに来た。
- 九月庚寅、「昇元刪定条」を頒布した。
- 冬十月、詔して「前朝が統御を失い、四方に割拠する者が多く出た。武人が権を握り、徳による教化は塞がって行き渡らない。朕はこれを深く悼む。三事大夫は朕のために儒吏を挙用し、苛政を除いて民とともに新たに始めよ」とした。
- 十二月、閩の徐弘績、漢の滕紹英、呉越の右武衛大将軍蔣璠が仁寿節を祝賀に来た。
- この年、溧水の天興寺で桑が木の人形を生じた。長さ六寸、姿は僧のようで、右肩を袒ぎ左膝を突き、衣も襞もそなわっていた。国人はこれを「須菩提」と呼び、帝は宮中に迎えて丁重に祀った。占い師は「木人が桑に生じるのは大喪の兆」と言った。
昇元七年(943年)
- 春正月、契丹の使者達羅千ら二十七人が聘問に来て、馬三百匹・羊二万五千頭を献じた。
- 二月、帝は方士の史守冲らの金丹を服して背に疽を発した。秘して人に知らせず、ひそかに医に治療させ、政務は平常どおり執った。群臣が奏事するとき、そのためにしばしば激怒したが、なかには顔色を正して論じ理にかなう者があれば、容を改めて詫び、その言に従うこともあった。
- 庚午、病が重くなり、太医の呉廷紹が使いを出して斉王璟を召し、馳せ入って看病させた。詔して「公も侯も百官も、嗣位の命を謹んで承け、わが元子の璟を保けよ。天の鑒を慎み、社稷宗廟が永く続くかどうか、朕は知りえない。その基が永く昌えるとも、命が墜ちて後なしとも、朕はあえて言えない。天は信ずるに足らず、徳ある者を祐ける。その位はまことに難いものだ」と述べた。
- この夕、昇元殿で崩じた。享年五十六。光文粛武孝高皇帝と諡し、廟号を烈祖とした。十一月壬寅、永陵に葬った。
遺言と人となり
- 崩御に臨んで斉王璟に「徳昌宮には武器と金帛七百余万が蓄えてある。そなたは成業を守るのだから、隣国とよく交わって社稷を保て」と告げた。
- また「私は金石の薬を服して延年を求め、かえって死を早めた。そなたはこれを戒めとせよ」と言い、さらに斉王の指を血が出るまで噛んで「いずれ北方に事が起こる。私の言葉を忘れるな」と言い含めた。
- 帝は戦乱のただ中に生い育ち、民が乱に倦んでいることを知っていた。諸臣の多くが「陛下は中興されたのだから出兵して旧領を回復すべきです」と言ったが、帝は嘆息して「兵が民を害することは甚だしい。まことに二度と口にしたくない。あちらの民が安んずれば、わが民も安んずる。ほかに何を求めよう」と言った。
- そのため在位七年、兵をみだりに動かさなかった。東は呉越と和を結び、捕らえた将士を返し、銭氏もわが敗将を返して、国交は絶えることなく、国内はこれによって休息を得た。
- 性は倹約で、常に蒲の履をはき、鉄の盆や甕を用い、暑い月には寝殿に青葛の帳を張るだけだった。側仕えの宮女はわずか数人の年老いた醜い者ばかりで、服飾も質素であった。建国の初め、金陵の役所をそのまま宮としたが、鴟尾を加え欄干を設けただけで、ついに改築しなかった。
- また天性明察で欺かれることがなかった。あるとき宦官を廬山の祭祀に遣わした。帰って宦官が「臣は詔を奉じて以来ずっと精進しております」と言うと、帝は「そなたは某所で魚を買って羹にし、某日には肉を買って切り身にしたではないか。どこが精進か」と言った。宦官は恥じ入って服した。
- 倉庫の吏が年末に剰余米一万石を献じたとき、帝は「出納には定数がある。民から搾り取り軍から削り取ったのでなければ、どうして剰余が出るのか」と言った。
- 法令を定めて、外戚は政治を輔けさせず、宦官は政事に関与させず、国事に殉じた者には三年分の禄を給した。いずれも他国の及ばぬところで、古の賢主の風があったという。
史論
- 論に曰く。烈祖はただ一身、寸土の基盤もないところから徐氏の名を借りて江南に覇を唱えた。莒人が鄫を滅ぼしたような(他姓を継いで国を奪う)謀をめぐらし、家を国に化す事業を成し遂げたが、その巧みな成就ぶりはすべて天の助けであった。
- とはいえ、兵を休めて民を養い、賢者を得て領土を開いたのは、まことに君主の徳があったからである。「東海の鯉魚」の予兆には由来があるにせよ、どうしてまったく人力によらぬものと言えようか。