十国春秋十國春秋卷十三 吳十三 列傳(田頵・安仁義/朱延壽/張顥/徐溫(子・知訓・知詢・知誨・知諫))

田頵・安仁義 ── 出自と初期の功

  • 田頵、字は徳臣、廬州合肥の人。安仁義は沙陀の叛将である。
  • 頵は書伝に一通り通じ、沈着果断で大志があった。太祖(楊行密)と同じ里の生まれで兄弟の契りを結び、州の募兵に応じて辺境に屯し、次第に軍将に昇った。太祖が廬州に拠ると従い、謀略で貢献するところが多かった。
  • 宣州の趙鍠を攻めたとき、鍠は東渓に出て激流に乗って逃げたが、水に阻まれて甲を脱ぎ、追騎は及ぶまいと思っていた。頵は軽舟で追い、鍠は驚いて捕らえられた。太祖は頵を馬歩軍都虞候に表した。
  • 安仁義は秦宗衡に従って淮南を侵していたが、孫儒が宗衡を殺すと太祖のもとへ亡命した。太祖は大いに喜んで騎兵を任せ、頵の右に置いた。二人は軍中で並び称され、互いに気が合った。共に常州を攻めて刺史の杜稜を捕らえた。

孫儒との戦いと節鎮の授与

  • ほどなく孫儒が南下して掠奪し、頵らは丹陽に駐屯した。孫儒は揚州を焼いて広徳に塁を築いた。頵はその屯を破ったが、次の戦いでは敗走した。太祖は怒って兵を取り上げた。ある者が「強敵が塁を並べているときに頵を用いないのは策ではありません」と諫めたので、太祖はまた頵に兵を将いさせた。
  • 孫儒は安仁義の名を恐れ、偽って書を送って好誼を通じ、太祖に疑わせようとした。太祖はかえって仁義をますます厚遇し、行軍副使に任じた。
  • ついに二人を用いて孫儒を攻めて捕らえ、そこで仁義を潤州刺史に、頵を宣州留後に表した。のち頵は寧国軍節度使を授けられ、累進して検校太保・中書門下平章事となり、仁義は団練使に除せられ検校太保に至った。

楊行密との不和

  • 頵が馮弘鐸を平定したのち、揚州へ礼を述べに行ったとき、太祖の側近たちが際限なく金品をねだり、獄吏まで要求した。頵は怒って「吏は私を獄に入れようとでもいうのか」と言った。
  • さらに池州・歙州を管轄に加えるよう求めたが許されなかった。頵はここから怨みを抱き、帰るとき府の門を指して「私は二度とここには入らない」と言った。

杭州侵攻

  • そのころ両浙の将・徐綰が叛き、越王銭鏐が杭州に入って綰を追った。綰は霊隠山に屯して頵を迎えた。
  • 頵は食客の何饒を鏐のもとへ遣わし、「王は退いて会稽を保たれよ。いたずらに士衆を屠るには及ばない」と言わせた。鏐は「軍中の小さな叛乱はよくあることだ。公は立派な人物なのに、なぜ逆賊を助けるのか」と答えた。
  • 頵が北門を攻めると、鏐は城に登って語りかけ、その麾下を射当てた。頵は塁を築いて往来の道を絶ち、鏐はこれに苦しみ、金幣十筐を出して土地を奪還できる者を募った。陳璋が決死の士三百を率い、兜を脱いで駆けて撃ち、その地を奪い返した。
  • 頵は城を攻めたが陥とせず、渡江して西陵を断とうとしたが浙将に退けられ、包囲はいよいよ厳しくなった。
  • そこで鏐は子の傳鐐を遣わして太祖に婚を求め、あわせて「頵が志を得れば禍は必ず大きくなります。子を人質に差し出しますから、どうか頵を召し返してください」と告げた。太祖は人を遣わして頵に「還らなければ、代わりの者を送って宣州を守らせる」と伝えた。頵は従わなかった。
  • 浙人が銭二百万緡を出して軍を犒い、さらに王子の傳瓘を人質に出すと申し出たので、頵はようやく徐綰とともに兵を退いた。

挙兵と敗死

  • しかし内心では太祖と浙人を怨み、太祖に書を送って言った。「侯王が方面を守るのは天子に奉ずるためです。たとえば百川が海に朝せず、狂ったように奔り溢れれば、結局は涸れた土地となる。流れに順って尽きぬほうがよい。東南では揚州が最大で、刀布や金玉が丘のように積まれています。どうか公は天子に常賦を上納されよ。頵はすべて蓄えを差し出し、単車でお供します」。太祖は「貢賦が汴を経て届くのでは、ただ敵を利するだけだ」と答えた。
  • そこで頵は太祖と絶ち、大いに兵を募った。昇州刺史の李神福は太祖に「頵は必ず叛きます。早く手を打つべきです」と言ったが、太祖は容れなかった。
  • 頵は使者を梁王朱全忠に送って好誼を通じ、全忠は喜んで宿州に屯して変を待った。
  • 頵の良将に康儒という者がいて、頵と議論が合わないことが多かった。太祖はことさら儒に廬州刺史を授けて仲を裂いた。頵は儒が自分に二心ありとしてその一族を誅した。儒は「田公の滅亡は間もない」と言った。
  • 天復三年(903年)八月、頵はついに安仁義とともに挙兵して叛いた。頵は昇州を攻め、李神福の妻子を捕らえたが厚く養った。
  • 神福はそのとき劉存とともに鄂州を攻めていたが、太祖は召し返して頵を討たせた。頵は将の王壇らを差し向けて迎え撃たせ、また李皋に書を持たせて神福に「公の家族はこちらにある。もし私に従えば、土地を分けて王としよう」と伝えた。神福は李皋を斬って拒絶し、吉陽で王壇の兵を破った。頵が自ら出て戦うと、神福は水際に堅塁を築いて戦わず、太祖に兵を出して頵の退路を塞ぐよう請うた。

安仁義の潤州籠城

  • そのころ仁義は東塘を焼いて常州を襲った。常州刺史の李遇が出て戦うと、仁義は備えありと察して軍を退き、伏兵を発して転戦し夾岡に至った。仁義は二本の旗を立て、甲を解いて休んだので、追兵は誰も向かおうとしなかった。仁義はまた潤州に入った。
  • 太祖は密かに王茂章・李德誠らに包囲させた。
  • 軍中では朱瑾の槊と米志誠の射がいずれも第一とされていたが、仁義は常に射を自負して「志誠の弓十は瑾の槊一に当たらず、瑾の槊十は仁義の弓一に当たらない」と言っていた。茂章らと戦うたび、必ず命中を見定めてから射たので、外の軍は恐れて近づけなかった。
  • 太祖も使者を送って「私は公の功を忘れていない。自ら帰順すれば再び行軍副使としよう。ただし兵を持たせることはできない」と伝えた。仁義は迷って決しかねた。

田頵の死と安仁義の最期

  • これより先、太祖は神福の檄を得ると、臺濛を呼んで涙ながらに「人はいつも頵が必ず叛くと告げていたが、私は人を裏切るに忍びなかった。頵は果たして私を裏切った。将となるべき者は公をおいてない」と語った。濛は頓首して謝し、騎兵を率いて渡江した。
  • 広徳で一戦、黄池で再戦、宣州城下で三戦し、橋が落ちて頵は臺濛に殺された。年四十六。その部下はなお戦い続けたが、頵の首を示すとようやく潰えた。その年の十一月のことである。
  • 仁義は潤州を守り、あらゆる手で攻めても落ちなかった。茂章はその油断に乗じて地を穿って侵入した。仁義は家族とともに城楼に籠もり、兵は登れなかった。仁義は李德誠を呼んで「お前になら命を委ねられる」と言い、愛妾を贈り、弓矢を投げ捨てて縛につき、広陵で斬られた。頵の死から一年後のことである。
  • はじめ頵は、傳瓘を人質に取ったのち、戦に勝てないたびに彼を殺そうとしたが、頵の母・殷氏と頵の妻の弟・郭従師が庇って助かった。城下の戦いのとき、頵は「今日勝てなければ必ず銭郎を殺す」と言ったが、頵が死んで禍は及ばなかった。
  • 頵の首は揚州に送られた。太祖は涙を流し、庶人の礼で葬り、その母を赦し、あわせて康儒も葬った。
  • 頵は日ごろ決死の士数百人を養い、「爪牙都」と号し、向かうところ敵なしで、その死力を得た。また治政に長け、商賈を通じやすくしたので民に愛された。とりわけ士を厚遇したので、杜荀鶴らは多く彼のために働いた。
  • 頵が乱を起こそうとしたころ、夕暮れに雉のような色で尾の大きな鳥が、散る星のような火の光を放ちながら外から飛び込み、戟門に止まって見えなくなった。翌日、府中で大火があり、曹局はすべて焼けたが、甲兵だけは残った。頵はそれを元手に事を起こした。
  • 仁義ははじめ降伏しようとしたが、その子が固く反対したのでやめた。事が終わって、その子も揚州の市で斬られた。

朱延壽 ── 武功

  • 朱延壽は舒城の人。太祖に仕えて秦彦・畢師鐸・趙鍠・孫儒を破り、功は最も多かった。
  • 太祖は寛恕をもって人心を得ようとしたが、延壽は平然と人を殺した。当時、揚州には盗が多く、捕らえられた者に太祖はいつも盗んだ物を与えて放し、「延壽に知られるな」と戒めた。しかし後には密かに延壽に殺害を許した。
  • はじめ寿州刺史の高彦温が州を挙げて汴に降ったので、太祖が襲った。諸将は城が堅くて抜けないと恐れたが、延壽は一鼓のうちに城を陥とし、そのまま淮南節度副使に表された。
  • 汴兵がなお寿春に屯していたので、延壽は新兵を率いて出、旗ごとに五名を一列とし、黒雲都隊長の李厚に十旗を率いて西側を撃たせた。勝てなかったので斬ろうとしたが、さらに五旗を加えて決死の戦いをさせ、汴兵は退いた。こうして黄・蘄・光の三州を取り、功により寿州団練使に移った。
  • 唐の昭宗が鳳翔にあったとき、詔して延壽に蔡を囲ませ、汴人の勢いを分けさせ、奉国軍節度使に抜擢した。
  • 汴兵が延壽の境に来るたび、延壽は門を開いて備えを設けなかったが、汴兵は迫れなかった。
  • 延壽は法の運用が厳しく、寡兵で衆と戦って勝てず引き返した者は必ず皆殺しにした。ある日、汴人と戦うにあたり二百人に大剣を持たせて陣に斬り込ませたとき、留守に残るはずの一人が従軍を願い出たが、延壽は命に違ったとして即座に斬った。

誅殺

  • 田頵が叛くと、使者を延壽に送って腹心を打ち明け、延壽は密かに「公が事を起こされるなら、私は鞭を執って従いたい」と約した。
  • 頵・安仁義と延壽が太祖と絶つ謀を固めると、太祖は内心疑ったが証拠がなかった。そこで眼病を装い、延壽の使者に会うたび、必ず見えるものを取り違えてみせ、いつも歩きながらわざと柱にぶつかって倒れた。
  • 太祖夫人の朱氏は延壽の姉である。夫人が助け起こすと、太祖は泣いて「私は事業を成し遂げたのに目を失った。これは天が私を廃するのだ。我が子らはみな事を任せるに足りない。三舅(延壽)に代わってもらえれば憂いはない」と言い、弁士を遣わして急ぎ召させた。
  • 延壽は疑って行こうとしなかったが、朱夫人が婢を送って知らせたので、延壽は急ぎ揚州へ向かった。着くと太祖は寝門で迎え、これを刺殺し、朱夫人を廃した。
  • これより先、延壽は浴室で、窓の外に青い顔で赤い髪の二人が公文書の函を持って立っているのを見た。一人が「私は命を受けて取りに来た」と言い、もう一人も「私も命を受けて取りに来た」と言い、ほどなく消えた。その年、延壽は殺された。

張顥

  • 張顥は蔡の人。はじめ驍勇をもって秦宗権に仕え、のち孫儒に従い、儒が敗れるとまた太祖に帰した。太祖は厚遇し、兵を率いて廬州に駐屯させた。
  • 蔡儔が叛くと顥は今度は儔のために働いた。太祖が廬州を攻めて包囲が厳しくなると、顥はまた城を越えて降った。太祖はふたたび親軍に置き、左牙指揮使に任じた。
  • 烈祖(楊渥)が位を継ぐと、顥と徐温が政を専らにしたので、内心不満であった。顥と徐温も身の危うさを感じ、共に烈祖の弑逆を謀り、顥が左牙の兵を率いて実行し、烈祖が急死したと偽って称した。
  • のち顥は自立しようとしたが、厳可求の計に阻まれて気勢を挫かれた。事の次第は烈祖本紀に記されている。
  • まもなく徐温が鍾泰章に命じて顥を除かせ、顥はその一党もろとも誅された。

徐溫 ── 出自と台頭

  • 徐温、字は敦美、海州胊山の人。沈毅寡黙で人と交わることが少なく、人の中にあって近寄りがたい威があり、人は「徐瞋(にらみの徐)」と呼んだ。
  • 唐末の大乱に際して塩を売る盗となり、太祖が合肥で挙兵すると、その部下に属した。当時、太祖は精兵数万を擁し、その軍を黒雲・長剣と号した。ともに事を起こした劉威・陶雅らは「三十六英雄」と称されたが、温だけは戦功がなかった。
  • 太祖が宣州に入ったとき、諸将は争って金帛を取ったが、温だけは米倉を押さえて粥を作り、飢えた者に食べさせた。太祖は内心これを非凡と認めた。
  • 太祖が朱延壽らを殺そうとしたとき、温は少しずつ計を献じ、事が成ると右牙指揮使に移り、はじめて謀議に参与した。
  • 太祖が病んで長子の渥(のちの烈祖)を宣州観察使として出したとき、温はひそかに懇ろに接し、烈祖は涙を流して温に礼を述べて赴任した。太祖の病が重くなったとき、平生の旧将はみな戦守のため外にあり、温だけが帳下にいたので、嗣を立てる功に与ることができた。

烈祖の弑逆と専権

  • はじめ烈祖は宣州に鎮したとき、指揮使の朱思勍・范思従・陳璠に親兵三千を率いさせていた。入って立つと、温と張顥が牙兵を握っているのを嫌い、思勍らを召して護衛としたが、温と顥はこれを忌み、偽って三将を江西の攻撃に従わせ、謀叛と誣告して誅した。烈祖は内心収まらなかった。
  • ある日、温と顥は牙兵を率い、刃を抜いて庭に押し入り、烈祖の親信十余人の罪を数え上げ、引きずり下ろして斬った。烈祖はこれで政を失い、内心憤ったが発せなかった。温と顥も身の不安から、群盗を送って烈祖を寝室で縊り殺した。
  • 久しくして温と顥もまた不和になり、鍾泰章に顥を殺させた。高祖のとき、温はついに政を独占した。
  • 温は自ら淮南行軍副使として昇州刺史を領し、広陵に留まり、養子の知誥を昇州防遏使として金陵で水軍を整えさせた。
  • 大将の李遇は温の跋扈に怒って侮蔑の言を吐いた。温は柴再用を遣わして宣州で遇の一族を誅した。太祖の旧将は誰もが身を疑ったが、温は偽って身を低くし、太祖に見えるときのように恭謹に振る舞ったので、諸将はようやく安心した。

節鎮と国政

  • 天祐八年(911年)、鎮海軍節度使・同平章事を領した。
  • 同十年(913年)、招討使の李濤を遣わして呉越を攻めさせたとき、裨将の曹筠が逃げ込んだ。温は密かに人を遣わして筠に「私がお前を将としながら、お前の軍の求めに応じられなかったのは私の過ちだ」と伝え、筠の妻子を赦して誅さず厚遇した。その秋、呉越が常州を攻め、温が無錫で戦ったとき、筠は前の言葉に感じて戻り、こうして呉越兵を破った。
  • 同十二年(915年)、高祖は温を斉国公に封じ、侍中を兼ね、水陸馬歩諸軍都指揮使・両浙都招討使とした。はじめて潤州に鎮し、昇・潤・常・宣・歙・池の六州を管轄とした。温は昇州に城を築いて大都督府を建て、同十四年(917年)にそこへ治所を移し、子の知訓に広陵で輔政させ、大事は温が遠隔から裁決した。
  • 知訓が朱瑾に殺されると、知誥が潤州から先に入り、政を得た。
  • 同十六年(919年)、温は高祖に皇帝を称するよう請うたが許されず、呉国王の位に即くよう請うて許された。こうして建国改元し、温は大丞相・都督中外諸軍事・諸道都統・鎮海寧国等軍節度使・守太尉兼中書令を拝し、爵を進めて東海郡王となった。
  • 高祖が薨じると、温は順序を越えて睿帝を立てた。順義十年(927年)、温はまた睿帝に皇帝即位を請うたが、許されぬうちに病死した。年六十六。斉王を追封され、諡は忠武。
  • 天祚三年(937年)、斉王・知誥は太祖武王と尊び、禅譲を受けると武皇帝と諡した。のち南唐が李姓に復すと廟号を義祖とし、その墳を定陵と名づけた。

徐溫の人物

  • 温は文字を知らず、人に訴訟の文書を読ませて裁決したが、いずれも実情と道理に適っていた。とりわけ智謀と権詐を好み、残忍であったが、人の用い方に長け、国人の心をかなり得ていた。
  • これより先、劉威が側近に讒言され、温はあやうく討とうとしたが、威が温を訪ねて腹心を打ち明けると、そのまま鎮に帰らせて疑わなかった。劉信が説客で譚全播を降したときは、温はわざと怒って発奮させ、虔州はたちまち平定された。将士の御し方はおおむねこの類であった。
  • また格別の器量があった。あるとき迎鑾鎮から帰る途中、百家湾で暴風が起こり、船頭たちは顔色を失った。温はゆっくりと肌脱ぎになり、帛で養孫の景通の頭を縛りつけ、妾たちを顧みて「私は泳ぎが得意だが、溺れたら助けている暇はない。何としてもこの子を守ってくれ」と言った。言い終わると風浪は次第に収まった。
  • 温は日ごろ白袍を好んで着ており、知誥は温の誕生日ごとに必ずこれを献じた。あるとき座客の中に温に諂う者がいて、「白袍は黄袍(帝位)ほど良くはありません」と言った。知誥はすぐさまこれを叱り、温に「令公の忠孝の徳は朝野の仰ぐところです。ひとたび諂佞の言が中外に聞こえれば、たちまち年来の名望を損なうのではありませんか。どうかその言に惑わされませんよう」と言った。温は頷いてはみせたが、内心では位を奪う気を捨ててはいなかった。知誥は自分が実子でないため、温が急いで国を取れば嗣げないと憂えて、こう言ったのである。
  • 温の妻は白氏・李氏、夫人は陳氏。李氏はもと知誥の養母で、南唐の昇元元年(937年)十二月に明徳皇后の諡を贈られた。
  • 子は知訓・知詢・知誨・知諫・知証・知諤の六人。知証と知諤は『南唐春秋』に見える。

徐知訓 ── 専横

  • 知訓は温の長子である。若くして兵法を学んだが修めきれず、とくに剣士や角觝の見世物を好んだ。温の権勢を恃んで不法が多かった。
  • 温が潤州に出鎮すると知訓を留めて輔政させ、朝廷はこれを持ち上げて「昌華相公」と呼んだ。
  • 日ごろ諸将を陵辱し、高祖に対しても君臣の礼をとらなかった。高祖は幼く気弱で、あるとき楼上で酒を飲み、優人の高貴卿に酌をさせ、知訓が参軍役、高祖はぼろ着に髷を結った蒼鶻役をさせられた。知訓は酒に任せて座を罵り、言葉は高祖にも及んだ。高祖は恥じて涙を流したが、知訓はいよいよ狎れて侮った。側近が高祖を扶けて立ち去らせると、知訓は吏を一人殺してようやく収まった。
  • 李德誠が女楽を抱えていたので知訓が求めると、德誠は「この者たちはみな子を生んでおり、年も長けています。貴人にお仕えするには足りません。もっと若く美しい者を求めて差し上げましょう」と答えた。知訓は德誠の使者に向かって「私が德誠を殺してその妻まで取るのは造作もないことだ」と言った。

朱瑾との確執と最期

  • はじめ知訓は朱瑾に兵を学び、瑾は力を尽くして教えた。のち瑾に馬を求めたが与えられず、不和になった。夜に壮士を送って瑾を刺そうとしたが、瑾は自ら数人を斬って屋敷の裏に埋め、知訓は隠して問わなかった。
  • まもなく瑾を静淮節度使として出したが、知訓が瑾を訪ねたとき、瑾に殺された。事の次第は朱瑾の伝にある。
  • これより先、宿衛の将・李球と馬謙が乱を起こし、高祖を擁して楼に登り、庫の武器を取って知訓を誅そうとし、門橋に陣した。知訓は戦ってしばしば退いた。そこへ瑾が外から来て、単騎で前に出てその陣を見て「これは大したものではない」と言い、振り返って一度采配を振ると、外の兵が争って進み、球と謙を斬り、乱兵はことごとく潰えた。
  • 瑾にはこのように知訓への功があったのに、非業の最期を遂げたので、国人はみな非は知訓にあると言った。

徐知詢

  • 知詢は温の第二子。温の養子・知誥が国柄を握って威権が盛んになると、金陵行軍司馬の徐玠が温に「中央で輔政する重責を他人に委ねるべきではありません。実子に代えるべきです」と諷した。
  • 温はすぐ知詢を入朝させ、知誥に代えて政を執らせようと謀ったが、おりしも温が急死した。知詢は金陵へ駆け戻り、諸道副都統・鎮海寧国等軍節度使兼侍中・輔国大将軍・検校太尉・守中書令・金陵尹を拝した。
  • 知詢はもとより暗愚で気弱、弟たちへの扱いも薄かった。徐玠は彼が必ず敗れると見て、逆にその弱みを握り、知誥に忠誠を寄せた。こうして知詢は内では弟たちに讒せられ、外では玠に売られていながら、それに気づかなかった。
  • 自分は強兵を握り要地にいるのだから、知誥を除くのは手を挙げるほど容易だと思っていた。温の喪が明けぬうちから、しばしば知誥に金陵へ来るよう請うた。知誥は計略に長け、密かに人を遣わして知詢のほうを入朝させた。
  • 知詢が広陵に着くと、知誥はその罪状を挙げて弾劾し、統軍に降し鎮海軍節度使を領させた。知詢は面と向かって知誥を責め、「先王の喪に、子でありながら親しく臨まず、逆に私を罪に問うのか」と言った。知誥は「お前が剣を吊るして私を待っていると聞いた。私も恐れはしないが、君命に迫られて行けなかったのだ。人臣でありながら乗輿を蓄えるのは謀反ではないのか」と答えた。
  • 周廷望は知詢の親吏であった。かねて偽って知誥に忠誠を装い、時に知誥の謀を探って知詢に告げてもいた。入朝の際、廷望は諫めて止めたが従われず、出発にあたり「公には行く日があっても帰る日はありません」と言い、涙を流して再拝して送った。
  • ここに至って知詢が廷望の言を持ち出して知誥に質すと、知誥は「お前のしたことを私に告げていたのが、その廷望だ」と言い、廷望を捕らえて斬った。
  • 知詢が金陵を失うと、かつての幕府の者はみな散り去り、ただ李建勲一人が従った。潤州に至ってからは、いつも僚佐を集めて終日談笑し、野心を完全に断った。
  • まもなく洪州に鎮を移され、東海郡王の爵を賜った。大和六年(934年)に没した。諡は康。

徐知誨

  • 知誨は温の第三子。知詢が温を継いで金陵を守り、非道な振る舞いが多かったので、知誨はその隠し事を探っては義兄の知誥に告げていた。知詢の失脚には知誨の讒構によるところが大きく、知誥は大いに恩に着た。のち鎮南軍節度使とした。
  • 知誨ははじめ太祖の功臣・吕師造の娘を娶ったが、正室の子ではなかったので、常にこれを恨んでいた。酔ったときに吕氏を刺し殺した。
  • 妻は非業の死ゆえにたびたび祟りをなした。知誨は気味悪がり、名僧を招いて梵経を誦させ、因果を説かせた。すると吕氏が姿を現し、「私はそんなことは分からない。ただ恨みを返しているだけだ」と言った。
  • 江西に鎮して一年余り、吕氏は現れなくなり、知誨は大いに喜んだ。
  • そこへ淮南から来た家人があり、道中で吕氏に出会ったという。吕氏は彩り舟に乗って来て家人を招き、「私に代わって相公にご挨拶を。どうかご自愛くださいと。私はこれから他へ行きます」と言い、刺繍の履を知誨に届けさせた。
  • 家人が江西に着いて真っ先にその事を語り、履を差し出した。知誨がじっと見ているうち、話が終わらぬうちに、吕氏が傍らに現れて「私が本当に来ないと思ったのか」と言った。ほどなく知誨は急死した。
  • 子に景遼・景遊があり、南唐が禅譲を受けたのち、知誨の遺族は特に優遇された。

徐知諫

  • 知諫は温の第四子。幼くして聡明で文筆を好んだ。徐氏の諸子の中で知諫が最も温雅であった。
  • はじめ知訓が国政を輔けたとき、まったく人を包容しなかったので、温は知諫を留めて陰から助けさせた。諸将は常に知訓が自分たちを陵ぐのを憎み、知諫を長者と認めた。
  • 温の養子・知誥が潤州から入朝したとき、知訓は山光寺で酒宴を催し、痛飲して騒ぎ、飲み食いの度が過ぎたことにして知誥を殺すつもりだった。知諫が密かにこれを知誥に漏らし、知誥は難を免れた。
  • 大和への改元のとき、知諫は鎮南軍節度使・同平章事を領し、同三年(931年)九月に在官のまま没した。
  • これより先、知誥が知詢を誘って入朝させたとき、知諫も実はその謀に加わっていた。知詢が代わって洪州に鎮するとき、道中でその喪に行き会い、棺を撫でて泣き、「弟がこのような心遣いをしてくれた。私に恨みはない。しかし、どんな顔で地下の先王にお会いできようか」と言った。聞く者は心を痛めた。