十国春秋卷十二 列傳 錢亮

錢亮

  • 錢亮は江淮の布衣(無官の民)である。人々は皆彼を「錢処士」と呼んだ。天祐年間(904-907年)、昇州に寓居し、楊という姓の家に宿泊していたが、真夜中に突然起き上がってこう言った。「地下で兵馬が争い合っている。令公(徐温)が私にやかましく告げてくると言うので、眠ることができない。」人々はその意味を計り知ることができなかった。
  • 翌日、徐温が金陵に到着したが、当時それを予め知っていた者はいなかった。
  • また処士は人に語って言った。「金陵の王気が再び興り、申生の子がここで天命に応じるはずだ。」
  • 徐知誥が昇州刺史となると、錢亮は彼に謁見し、退出して側近に言った。「建業の地は再び帝都として興る。それはまさにこの郡侯である。」
  • その後、徐温が徐知誥を潤州に移すと、そこで官舎を広く修築し、城壁と濠を大きく巡らせ、その期がまさに彼に当たると予期した。錢亮は「これはもともと道を修める主人である」と言った。
  • 南唐が禅譲を受けるに至り、先主(李昪)は実に戊申の年に生まれており、錢亮の言葉と符合したので、亮を「霸国先生」に封じた。
  • 当時、亮の姿を描かせた者がいたが、亮はそれを見て言った。「私は反対に、この絵ほど常に聖人に対する姿ではない。」まもなく、一人の僧がその図を取って誌公塔の中に置いた。その後、南唐の先主が再びそれを取り出して宮中に入れ、内寝に飾った。その言葉はこうして的中したのである。
  • 亮はまた讖語(予言の言葉)を作るのを得意とし、将来のことを説いた。晩年、李氏の運勢について言った。「ほぼ倍にあたる。楊氏は淮南を保つこと四十六年、李氏は三十九年で、ほぼこれに近いであろう。」
  • ある人は、楊氏は改元してから姓を易えるまでわずか二十年であるから、それを倍にしたのだと言った。