碑陰の八字を解く
- 徐延休は字を徳文といい、会稽の人である。博物多学で風度は淹雅(奥ゆかしく上品)であった。唐の乾符中の進士である。
- 昭宗が石門に狩(避難)したとき、学士がおらず詔を草す者がなかった。徐延休はまだ官に任ぜられておらず、たまたま近くの逆旅(宿)にいたが、左右の者がその文辞に巧みなことを言上したので、すぐに召見され草を視ることを命ぜられた。昭宗はこれを善しとした。
- 長安に還ってから用いられず、枢密使の蔣玄暉に僚佐として招かれたが、徐延休はその人を悪んで棄て去り、鍾伝を洪州に頼った。
- 烈祖の時、江西を取ると徐延休を得て連れ帰り、義興県令を授けた。官を重ねて光禄卿・江都少尹に至り、卒した。
- 初め、義興には漢の太尉許馘の廟があり、廟碑は許劭が立てたものであった。字は久しく磨滅していたが、開元中、許氏の子孫たちがこれを再び刻し、碑陰に八字を題して「談馬礪畢王田數七」とした。当時の人はこれを理解できなかったが、徐延休はひと目見てこれを解いて言った。「談馬は午(うま)と言い、午と言うは許(きょ)である。礪畢は石卑(石へんに卑)であり、石卑は碑(ひ)である。王田は千里であり、千里は重(じゅう)である。数七はこれ六一であり、六一は立(りつ)である。すなわち『許碑重立』(許の碑を重ねて立てる)の四字にほかならない」と。
- 徐延休の二子、徐鉉・徐鍇には別伝がある。