十国春秋十國春秋卷十一 吳十一 列傳(杜荀鶴・殷文圭・楊夔・沈文昌・沈顔・徐延休・游恭・王振・信都鎬・陳濬・朱潯(周延禧)・張翊/汪少微・支戩・奚超・淮南畫工)

杜荀鶴

  • 杜荀鶴はもとより詩名が高く、みずから九華山人と号した。唐の大順年間(890-891年)に進士に及第した。
  • 世が乱れたため九華山へ帰った。田頵が宣州にあってたいそう重んじたので、その幕府に賓客として身を置いた。
  • 田頵が挙兵すると、密かに書簡を持たせて寿州へ遣わし、朱延寿と結ばせ、さらに汴へ行かせて梁王朱全忠と通じさせた。全忠はかなり厚遇した。
  • 田頵が敗れると、全忠は上表して荀鶴に翰林学士・主客員外郎・知制誥を授けた。荀鶴は勢いを恃んで縉紳を侮ったので、人々は怒って殺そうとしたが、実行される前に天祐年間に没した。
  • はじめ荀鶴が全忠に謁したとき、雨が降り出したのに空には流れる雲がなかった。全忠が「これは天が泣くというもの。どういう瑞兆か」と言うと、荀鶴は「無雲詩」を賦して献じ、全忠は大いに喜んだ。

殷文圭 ── 及第までの経緯

  • 殷文圭は池州の人。幼名は桂郎。九華山に住んで苦学し、使った墨で池の底に穴があいたほどであった。
  • 唐末には科挙の場で請託が公然と行われていたが、文圭は游恭とともに独り試験場で抜きん出ていた。
  • 乾寧年間、昭宗が三峰に行幸したとき、文圭は東平王朱全忠の推薦の表を携えて及第した。まもなく裴樞の宣諭判官となって汴州に至り、全忠はまた推薦した。
  • ところが文圭は公卿に啓を投じて「虎が獲物を狩るのは尺璧の珍を求めるためではなく、鶢鶋(海鳥)が風を避けるのは洪鐘の楽を望むからではない」と述べた。南へ帰ってから多言な者にこれを暴かれ、全忠は激怒して吏を遣わして捕らえさせたが及ばなかった。全忠はこれ以来しばしば「書生というものは総じて心を裏切る」と言い、そのたび文圭を証拠に挙げた。

田頵・楊氏への仕官

  • 当時、寧国節度使の田頵は儒士を厚く重んじ、田宅を用意して文圭の母を迎え、甥として文圭に仕えた。文圭は頵の心に感じて力を尽くした。
  • 頵が死ぬと太祖父子に仕えて掌書記となり、文章で名を知られた。太祖の墓誌銘も彼の手になるものである。
  • 武義元年(919年)、翰林学士を拝した。
  • 著作に『登龍集』十巻、『従軍藁』二十巻、『筆耕』二十巻、『冥捜集』二十巻がある。子の崇義は南唐に仕えて宰相となった。

相人の予言と怪異、晩年

  • これより先、文圭が進士を目指していたころ、道で老人に出会った。老人は文圭をじっと見つめ、人に「あの人は眉が緑で、拳が必ず口に入る。神仙の相だ。道を学べば沖虚の境に至り、そうでなければ天下に大いに名を得るだろう」と言った。文圭の拳は実際に口に入り、のち当代に名を顕して、まさにその言の通りになった。
  • また、あるとき大きな沢を通っていると、にわか雨と雷・雹に見舞われ、人々は驚いてつまずいたが、文圭だけは何も聞こえぬかのように落ち着いていた。雨が止んでから傍らの者が見ると、その両耳の中は鬼神が泥で封じていた。その奇異な徴はこのようであった。
  • 文圭は晩年、かなり金銭に執着した。ある日、司空・李德誠の除書(麻)を起草したとき、潤筆(謝礼)が長く届かないので詩を作って催促し、そのために当時の評判を落とした。

楊夔

  • 楊夔は優れた才があり、殷文圭・杜荀鶴・康軿・夏侯淑・王希羽らとともに宣州の田頵の上客であった。
  • 夔は頵が太祖に抗するには足りぬと見て、「溺賦」数百言を著して戒めたが、頵は用いず、ついに敗れた。
  • 夔には「紀梁公対」「原晋乱説」があり、当時の人々は競ってその文を伝えた。

沈文昌

  • 沈文昌は湖州の人。文章は精緻で、あらかじめ用意しておいたかのように書けた。
  • 長く田頵の幕中にあり、頵に代わって檄を草し、太祖を口をきわめて罵倒した。
  • 頵が敗れると、太祖はその罪を赦して節度牙推に用い、機敏さで当時に知られた。

沈顔

  • 沈顔、字は可鋳、湖州徳清の人。唐の翰林学士・沈伝師の孫。
  • 天復初(901年)に進士に及第して校書郎を授けられたが、乱離のため湖南の馬氏のもとへ奔った。まもなく呉に帰順して淮南巡官となり、累進して礼儀使・兵部郎中・知制誥・翰林学士となった。
  • かつて太祖の神道碑を撰し、当時の人はこれを大家と認めた。順義年間に没した。
  • 顔は若くから詞藻に富み、琴も囲碁も神域に達していた。時人は彼を「下水船(流れに乗る舟)」と呼んだ。文を作るのが精緻で速く、載せられぬものがない、という意味である。
  • 性は静かで淡泊、世俗の利を喜ばず、当世の文章が浮薄であるのを常に憎み、古に倣って百篇を著し『聱書』と名づけた(全十巻)。その自序に「孟軻ののち千余年、儒者にはまだ聞くべき者がない。天がその極みを厭い、この鄙しい私に託した」とあり、その誇大な言いようはこの通りであった。
  • ほかに『解聱書』十五巻、『大紀賦』一巻、「登華旨」「象刑解」「時弁」「讒国」などの諸文、および「宣州重建小庁記」が世に行われている。

徐延休

  • 徐延休、字は徳文、会稽の人。博識で学識が広く、風度は雅やかであった。唐の乾符年間に進士となった。
  • 昭宗が石門に行幸したとき、詔を草す学士がいなかった。延休は任官待ちでたまたま近くの宿におり、側近が文辞に巧みだと告げたので、召し出されて草稿を作らせた。昭宗はこれをよしとした。
  • 長安に還ってからは用いられず、枢密使の蒋玄暉が僚佐に辟召したが、延休はその人物を嫌って去り、洪州の鍾傳に身を寄せた。
  • 烈祖が江西を取ったとき、延休を得て呉に帰し、義興県令を授けた。累進して光禄卿・江都少尹に至り、そこで没した。

徐延休の碑文解読

  • はじめ義興には漢の太尉・許馘の廟があり、廟碑は許劭が建てたものだったが、字は久しく磨滅していた。開元年間に許氏の子孫が刻み直し、碑陰に「談馬礪畢王田数七」の八字を題した。当時の人には解けなかった。
  • 延休は一目見て解き明かした。「談馬」は「言午」で許。「礪畢」は「石卑」で碑。「王田」は「千里」で重。「数七」は「六一」で立。つまり「許碑重立」の四字にすぎない、と。
  • 延休の二子、徐鉉と徐鍇には別に伝がある。

游恭

  • 游恭は建安の人。唐の進士に及第した。博学で文辞に巧みで、世に名があった。
  • はじめ鄂州の杜洪の掌書記となり、洪が死ぬと呉に帰順して館駅巡官に任じられた。武義への改元(919年)で知制誥に移り、まもなく没した。
  • 恭はかつて命を受けて烈祖の墓誌を撰し、その辞はきわめて要を得ていて、同輩に称された。『小東里集』三巻、『広東里集』四巻がある。
  • 子の簡言は南唐に仕え、別に伝がある。

王振

  • 王振は出身地が原文で欠けている。高祖兄弟に仕えて史官となった。典故に習熟し、事跡に博通していた。
  • 著した太祖らの本紀、および諸将の戦功の考証は、いずれも詳密で偽りがなく、切実で華美に流れず、世に良史の才と称された。

信都鎬

  • 信都鎬は隋の信都芳の後裔。若くから著述を自負した。
  • 太祖が広陵に入ったとき、功臣は三十九人であったが、同時に補佐した将吏は実に五十人であった。鎬はその名と功績を記録して『淝上英雄小録』二巻を作った。

陳濬

  • 陳濬は廬陵の人。父の陳岳は唐に仕えて南昌観察判官となり、『唐統紀』百巻を著した。
  • 濬は史才があって父の学を継ぎ、睿帝に仕えて中書舎人・翰林学士となり、『呉録』二十巻を撰した。官は尚書で終わった。子の喬は南唐に仕えて別に伝がある。

朱潯(附・周延禧)

  • 朱潯はもとより文章で名家とされ、著した『啓覇集』三十巻は当世に重んじられた。
  • 同時代に周延禧という者があり、やはり通才と称され、みずからその集を『百一集』と名づけた。

張翊

  • 張翊は先祖が京兆の人。唐末に翊の父が番禺の任を授かったが、劉隠が広南に拠ろうとしたので官を捨てて北へ帰った。
  • 潭州・衡州のあたりに至ったとき、馬氏がすでに潭州・澧州を領していたので、一家を挙げて江南へ亡命し、廬陵の禾川を通ったとき家を借りて住みついた。
  • 翊は弟の惟彬とともによく読書して先業を継いだ。高祖のとき徐知誥が国政を輔けており、翊は広陵に入って射策に及第し、武騎尉を授けられた。
  • 知誥が金陵に鎮を移すと従って渡江し、宋斉丘に知られて府中の従事となった。
  • 南唐の禅代で虔州観察判官・西昌令に抜擢され、道を借りて広陵へ帰ったとき、郷里の人はこれを栄誉とした。
  • しかし才を恃んで偏狭かつ短気で、側近を凌ぎ暴威を振るったため、毒を盛られて没した。
  • 翊の文辞は婉麗で、「禾山大舜二妃廟碑」「廬陵紫陽観碑」「新興仏閣碑」の文はいずれも翊の撰である。

史論(文人たち)

  • 論に曰く。殷文圭ら諸人はいずれも文章の選に堪える人々であった。ある者は典雅豊富で体裁を得、ある者は精緻簡潔をもって長じた。江南にはもとより才士が多いが、文圭らには先駆けて道を切り開いた功がある。杜荀鶴は唐の臣ではあるが、長く宣州の幕府にいたので、呉の人の列に載せることができる。

汪少微

  • 汪少微は歙州の人。順義元年(921年)に歙硯の銘を撰し、「松の脂の煙を凝らし、楮の華が雪を敷き、毫の穂は飛ぶがごとし。人間の四絶」と述べた。

支戩

  • 支戩は余干の人。代々小吏の家であったが、戩だけは学を好み文章をよくした。睿帝のとき歴仕して金陵観察判官・検校司空となった。
  • これより先、戩がまだ世に出ないころ、戯れに箕仙に「支秀才は将来どんな官になるか占ってほしい」と祈った。箕仙は「年五十余りで位は司空」と書いた。果たしてその通りとなり、五十一歳で任地に没した。
  • 箕仙とは、飯を盛る箕に衣を着せて行うことから、その名がある。

奚超

  • 奚超は易水の人。父の奚鼐と、その弟の奚鼎は墨作りに巧みで、能品と称された。唐末に歙州へ移住した。
  • 超はその製法を継ぎ、高祖・睿帝のころ製墨の名家となった。南唐に至って李姓を賜り、李廷珪・廷寛・廷宴は超の子である。廷宴の子が文用、文用の子が仲宣で、いずれもよく家業を継いだ。

淮南の画工

  • 淮南のある画工は姓名が伝わらない。晋王李克用が河東を領していたころ、太祖はその容貌を知らないのを残念に思い、密かに画工を商人に仮装させて境内に入り、その姿を写させようとした。
  • 河東に着いたところで謀を暴く者があり、画工は捕らえられた。
  • 晋王ははじめ大いに怒ったが、やがて「私はもともと片目が小さい。試しに描かせて、どうするか見てやろう」と言った。
  • 画工が召されると、晋王は膝を按じ、声を厲しくして「淮南がお前を寄越して私の姿を描かせるのだから、よほどの名手であろう。十分に写せなければ、階下がお前の命の終わる場所だ」と言った。
  • 画工は再拝して筆を下ろした。時は盛夏で、晋王は八角の扇を手にしていたので、扇と衣で顔の半ばを遮った姿を描いた。晋王は「これは私に諂うものだ」と言い、すぐ別に描かせた。
  • 画工は即座に筆を下ろし、弓を背に矢をつがえる姿を描き、そのうえで矢の曲直を見るために片目をわずかに細めた形にした。晋王は大いに喜び、金帛を厚く与えて帰らせた。