十国春秋卷十 列傳 鍾泰章
要約
鍾泰章は(呉録には鍾章に作る)合肥の人で、勇敢で膽略に富み、烈祖の時代に左監門衛将軍であった。徐温が張顥と権を争った際、厳可求の推挙で暗殺の実行役に選ばれ、密かに諭されると内心喜んで壮士三十人を選び、牛を屠って饗し、夜に血をすすって誓い合った。徐温が母の老いを理由に「事が成らねば」とためらわせようとしても、鍾泰章は「言葉はすでに口を出た、どうしてやめられよう」と決意を変えず、翌日ついに張顥を誅殺した。しかし論功の際、張顥を弑逆の罪で暴き叛を誅した功を論じながら、鍾泰章への賞だけは薄かった。
彼は酒宴のたびに功を恃んで諸将と張り合い、徐知誥への怨望を疑う者もあったが、徐温は「昔、一族皆殺しの禍のとき、彼がいなければ今日の富貴はない」とかばい続けた。しだいに抜擢されて滁州刺史となり、周本に従い蘇州を攻めた際、周本が敗れる中、精兵三百で殿軍を務め、旗を水草の中に多く立てる計略で追撃を防いだ。
寿州団練使のとき、官馬の不正購入を告発され饒州刺史に左遷、金陵で三度詰問されても弁明せず、「私は義において国に背いていない、県令に落とされようと従う」と応じた。徐知誥がなお処罰を求めたが徐温はこれを許さず、代わりに鍾泰章の次女を徐知誥の長子に嫁がせた。これがのちの南唐の光穆皇后である。
現代語訳全文
張顥誅殺の功臣
- 鍾泰章は(呉録には鍾章に作る)合肥の人である。人となり勇敢で膽略があった。烈祖の時、官は左監門衛将軍にあった。
- 高祖が初めて位を襲ったとき、徐温は張顥と権を争い、張顥を刺そうとしたがその人選に難儀した。厳可求が徐温に「鍾左衛(鍾泰章)でなければならない」と語った。徐温はそこで親しい将を遣わして密かに鍾泰章に諭した。鍾泰章は内心喜び、壮士三十人を選んで牛を屠ってこれを饗し、夜、血をすすって互いに誓った。
- 徐温はなお鍾泰章が臆病になるのではと疑い、夜半にこれを止めて「僕の母は老い、事が成らないことを恐れる。ゆっくり図ってはどうか」と言った。鍾泰章は勃然として「言葉はすでに口を出た、どうしてこれをやめられようか」と言った。
- 翌日、ついに張顥を誅した。徐温はこれによって張顥が君を弑した罪を暴(あば)き、ほどなく叛を誅した功を論じたが、鍾泰章への賞だけは薄かった。
- 鍾泰章はつねに酒宴で酣となると功を恃んで頡頏(対等に張り合う)し、諸将と争った。ある者が「鍾泰章は徐知誥を怨望している」と言い、その制しがたきことを疑わせた。徐温は「それは私の過ちだ。昔、私が一族皆殺しの禍に遭ったとき、間髪を容れぬ危機であった。鍾泰章がいなければどうして今日の富貴があろうか。どうして薄いもの些細なことで彼を疑うのか」と言った。
- しだいに抜擢されて滁州刺史となった。ほどなく周本に従って蘇州を囲んだが、周本が黄天蕩で敗れると、鍾泰章は精兵三百を率いて殿(しんがり)となり、旗幟を菰や蒋(水草)の中に多く立てたので、追兵はあえて迫らず、無事に引き返すことができた。
- しばらくして寿州団練使に遷った。順義中、その官馬の侵し買い占めを告げる者があり、徐知誥は王命をもって王稔を遣わしてこれに代えさせ、鍾泰章を饒州刺史に改めた。
- 徐温は金陵に召し、陳彦謙に命じて三度これを詰問させたが、いずれにも答えなかった。ある者が「鍾泰章はどうして自ら弁明しないのか」と言うと、鍾泰章は「私は揚州の十万軍中にあって壮士と号された者だ。寿州は淮からわずか数里、歩騎五千を下らない。もし他の志があるならば、どうして王稔ひとりの騎兵で代われようか。私は義において国に負くことがない。たとえ黜(しりぞ)けられて県令になろうとも行くのに、まして刺史においてをや。どうして自ら弁明して朝廷の失を彰らかにする必要があろうか」と言った。
- このとき徐知誥は法をもって諸将を縄そうとし、鍾泰章を収めて罪に治めることを請うたが、徐温はこれを許さず、そこで鍾泰章の次女を徐知誥の長子に娶らせるよう命じた。これが南唐の光穆皇后である。