十国春秋卷十 列傳 江夢孫

要約

江夢孫は字を聿修といい、潯陽の人である。経史に博く通じ、立ち居振る舞いは高潔であった。太和中、中書令徐知誥の推挙で秘書郎となったが、みずから「迂遠な儒者で役に立たない、民を治める道で試したい」と繰り返し求め、ついに天長県令となった。徐知誥は「今日これを受ければ明日には駆け使われる身になる」と念を押したが、江夢孫は「これは日頃の志だ」と意に介さなかった。

赴任すると、県庁に邪気があり誰も居座れないと聞いても動ぜず、香を焚いて「鬼神や祠廟の類があるなら居場所に帰るがよい、私の行いは暗室を欺かない」と告げると、その夜のうちに怪異は影を潜めた。寛大簡明な政で吏民に安んじられ、一年余りで官を棄てて去ると、県人は号泣して数十里を見送った。

帰郷しては継母によく仕えて孝を尽くし、朝夕身なりを整え食事を見守り、母の食後には諸生に経義を講じた。疑わしい説には「先儒にもなお異同が多い、諸君は長ずるところを選ぶがよい」と語った。南唐の保大中に八十五歳で没し、国子司業を贈られ、葬送には千人、喪服の者百人ほどが集まった。

史論は、盧樞・王潜・楊廷式らの功績を称える一方、徐融・汪台符は献策や諷言によって身を滅ぼしたと惜しみ、江夢孫だけは進退の道を失わず謙虚に己を治めた「盛徳の士」であったと結んでいる。

現代語訳全文

清廉なる県令

  • 江夢孫は字を聿修といい、潯陽の人である。経史に博く通じ、立ち居振る舞いは高潔であった。太和中、中書令徐知誥が表を奏して秘書郎とした。
  • 江夢孫はしばしば自ら「迂遠な儒者で裨益(役に立つこと)がありません。平生の読書は民を治めるところで少し試したいと思っています」と言い、県令となることを求めた。
  • ちょうどこの頃、徐知誥に食客となる士はおおむね功名富貴を自ら期待していたが、江夢孫だけは奢った望みがなかった。徐知誥は本心ではないと思い、まだこれを許さなかった。しばらくしてしきりに求めることをやめなかったので、ついに天長県令に補せられた。
  • 徐知誥は先に告身(辞令)を持ってこれを示し、「今日これを受ければ、明日には庭下に趣き走り出ることになろう」と言った。江夢孫は「これは私の日頃の志です。どうして支障がありましょうか」と言った。
  • 天長に至ると、吏が「県署の庁事には邪気(淫厲)があって居ることができません」と告げた。江夢孫は「長吏が堂皇に座らないのは礼ではない」と言った。その夕方、はたして怪異が並び現れたが、江夢孫は起きて香を焚き、「私、夢孫は命を受けて令となり、まさにここで政務を執るべきである。鬼神や祠廟・丘壟があるならば、なぜそれぞれその居るべき所に帰らないのか。私の行いは暗室(人の見ぬところ)を欺かない、どうして君らを畏れようか」と言った。言い終わると怪異はみな影を潜めた。
  • 江夢孫は県を治めるに寛簡(寛大簡明)であり、吏民はこれに安んじた。一年余りして官を棄てて去ると、県の人々は号泣して数十里これを送った。
  • 家に帰ると継母に仕えて孝を尽くし、朝夕、衣冠を清潔にし、饍羞(食事)を見守り、母の食事が終わってから諸生のために礼を講じ経義を釈いた。疑わしいところに至るごとに衽(衣の前)を斂めて「この科目は先儒にもなお異同が多い。夢孫はどうしてあえて軽々しく言えましょうか。諸君は自らその長ずるところを選ぶがよろしい」と言った。
  • 南唐の保大中に卒した。享年八十五。国子司業を贈られた。葬りの日、遠方より至る者千人、喪服を着る者百人ほどであった。

史論

  • 論じて言う。盧樞は一言で民兵を団結させた、思慮が深遠であったというべきである。王潛が銓衡(人事)を司ったこと、楊廷式が台職(御史台の職)にあったことは、いずれもその官に恥じないものであった。徐融は諷言によって禍を招き、汪台符は献策によって身を喪った。その人柄は嘉すべきであるが、身を全うする智にはやや暗いところがあった。江夢孫のような者は、進退にその道を失わず、へりくだって自ら牧(おさ)めた、まさにいわゆる盛徳の士というべきであろう。