十国春秋卷十 列傳 汪台符

斉邱に憎まれ非業に死す

  • 汪台符は歙州の人である。若くして学を好み経籍に博く通じ、文章を善くし、浮ついた末技を追わなかった。王を匡(ただ)し覇を定めるほどの才があった。
  • 天復の初め、陶雅の幕客となったが、ほどなく天下が兵戦に苦しむのを見て、郷里に居を移し、耒(すき)を執って農耕に励んだ。
  • 睿帝の時、徐知誥が金陵を鎮めていたが、汪台符は草間(在野)より上書して民間の九つの患いおよび利害十余条を陳べた。書が上げられると、宋斉邱に阻まれ、「その言はあってもその実行はきっとない」と言われ、徐知誥は猶予してこれを信じなかった。
  • 宋斉邱は初め字を超回といったが、汪台符はそこで書を送ってこれを誚めて言った。「聞くところでは、足下は先聖(孔子)に斉しいことをもって名を立てているのに、亜聖(顔回)を超えると称して字とするとは」と。宋斉邱は恥じてその字を改め「子嵩」とした。これより大いに怒った。
  • 汪台符は密かに人を遣わして舟に乗せて痛飲させ、石頭の蚵蚾磯の下に至らせてこれを沈め殺した。徐知誥はこれを聞いて久しく嗟嘆し、頗る(宋斉邱を)憾んだ。
  • 汪台符はかつて田賦を括定(整理確定)することを請い、正苗一斛ごとに別に三斗を輸せしめ、官は塩一斤を授ける、これを「塩米」と称した。倉に入れば「羨米」があった。太和の末、徐知誥が民に米を入れさせて塩を請わせたのは、すなわちその法である。
  • 南唐の昇元中、民の田や物畜の高下を限って三等とし、その均輸をもって定制としたこと、また貨鬻(商売)に征税を課し、舟行に力勝(積載運賃の税)を課したこと、みな汪台符の言を用いたものであるという。
  • 汪台符には歙州汪王廟記があり、文辞は竒奥(奇抜で深遠)であって、大いに当時称された。