十国春秋十國春秋卷十 吳十 列傳(尚公廼・黃訥/嚴可求・駱知祥・陳彦謙/盧樞・王潛・楊廷式・徐融・汪台符・江夢孫/鍾泰章・翟虔・韋建・高審思・李章・王令謀)

尚公廼

  • 尚公廼は丹徒の人。はじめ昇州の馮弘鐸の牙将となった。弘鐸が太祖(楊行密)のもとへ遣わして潤州を求めさせたとき、太祖は許さなかった。公廼は大言して「公が聞き入れられないなら、結局わが楼船には敵いますまい」と言った。
  • 弘鐸が敗れて太祖に帰順したのち、太祖は公廼に戯れて「潤州を求めに来たときのことを覚えているか」と言った。公廼は席を降りて謝し、「将吏はそれぞれその主のために働くもの。ただ成らなかったのが心残りです」と答えた。太祖は笑って「お前が楊爺を馮公に仕えたように仕えてくれるなら、私に憂いはない」と言った。
  • のち公廼は田頵の謀反の書状を暴いて報告し、ついに太祖を裏切らなかった。

黃訥

  • 黃訥は蘇州の人。天祐年間、鎮南節度使・劉威の幕客であった。
  • 太祖が薨じたのち、劉威は帥府に忌まれ、ある者が徐温に讒言したので、徐温は威を除こうとした。
  • 訥は威に「公への謗りは深いが、謀反の事実はもともとありません。軽舟で参覲すれば、嫌疑はたちまち消えます」と説いた。威が従うと、徐温は果たして威をたいそう恭しく遇し、威は鎮に帰ることができた。これには訥の功があった。

嚴可求 ── 出自と朱延壽誅殺の謀

  • 嚴可求は同州の人。父の実は唐に仕えて江淮水陸転運判官となり、江都に家した。
  • 可求は若くして機敏で計略に長け、徐温の食客として太祖の幕僚となり、事あるごとに多くを画策した。
  • 太祖が朱延寿を疑って殺そうとしたとき、徐温は可求の謀を用い、太祖に眼病を装わせて延寿を欺かせた。事が成って徐温は右牙指揮使に進み、可求も献策の功で謀議に参与するようになった。

楊渥の擁立

  • 太祖が危篤のとき、徐温と可求が見舞いに入ると、太祖はひとり可求を目で追い、じっと見つめること久しかった。
  • 一同が退出すると可求は「王に万一のことがあれば軍府はどうなりますか」と問うた。太祖は「周隠に命じて長子の渥を召させた。死を堪えて待っている」と答えた。
  • 可求は徐温とともに急ぎ周隠のもとへ行った。隠はまだ出てこず、机の上に召還の符が作られたまま置かれているのを見つけ、急いで取って発した。こうして烈祖(楊渥)は嗣立できた。

高祖擁立と張顥への対抗

  • 張顥が徐温とともに烈祖を弑したとき、両者は領地を二分して梁に臣従する約束を交わしていた。烈祖が死ぬと顥は約を破って自立しようとし、諸将に声を張り上げて「嗣王は薨じた。軍府は誰が主となるべきか」と三度問うたが、誰も応じなかった。
  • 可求はひそかに徐温のために地ならしをしようと、進み出て密かに「今は四境に不安が多く、公が主となる以外にない。しかし今日ではあまりに急でしょう」と言った。顥が色を変えて「なぜ急だと言うのか」と問うと、可求は「廬州の劉威、歙州の陶雅、宣州の李簡、常州の李遇は、みな先王と同輩です。公が自立しても、彼らが公の下に付きましょうか。幼主を立てて年月をかけて馴らすほうがよい。そうなれば諸将の誰が従わずにいられましょう」と答えた。顥は黙り込んだ。
  • 可求は急ぎ退出して一通の教書を書き、袖に入れ、同僚を促して使宅へ祝賀に向かわせた。一同は何事か分からなかった。着いてから教書を宣したところ、それは烈祖の母・史太夫人の教であった。要旨は、先王の創業は苦難に満ち、嗣王は不幸にも早世した、次は隆演が立つべきである、諸将は楊氏に背いてはならぬ、というもので、辞旨は激しく切実だった。
  • 顥らは気を挫かれ、その道理の正しさゆえに覆せず、高祖(楊隆演)が立つことができた。

張顥の排除

  • 顥はこれによって徐温と不和になり、高祖に諷して徐温を潤州へ出そうとした。可求は徐温に会って「公が牙兵を捨てて藩郡に赴けば、禍はたちまち至ります」と言った。徐温は憂えた。
  • そこで可求は顥に「公が徐公を潤州へ移すので、人々は兵権を奪って殺すつもりだと言っています。本当ですか」と説いた。顥は「右牙(徐温)自身が望んだことで、私の意ではない。もう手続きは進んでいる。どうしようもない」と答えた。可求は「造作もありません」と言った。
  • 当時、行軍副使の李承嗣が軍府の政に参与していた。可求は承嗣を訪ねて「顥の凶悪ぶりはこの通りです。今、右牙を外に出すのはただごとではなく、公にとっても不利でしょう」と言った。
  • 翌日、顥と承嗣を招いて徐温を訪ね、可求はわざと目を怒らせて徐温を責め、「古人は一飯の恩も忘れぬもの。まして公は楊氏の宿将です。今、幼い嗣君が立ったばかりで多事のときに、外に出て身の安泰を求めようとするのですか」と言った。徐温も偽って詫び、「皆さんに引き止められるなら、去りたくはありません」と言った。こうして転出は取りやめとなった。
  • 顥は可求に謀られたと知り、夜に刺客を送った。可求は逃れられぬと悟り、府主への別れの書を書かせてほしいと請うた。刺客が刀を突きつけても、可求は筆を執って恐れる色がなかった。刺客は文字が多少読めたので、その文辞の忠壮なのを見て「公は長者だ、殺すに忍びない」と言い、財貨だけ奪って去った。
  • ほどなく徐温は鍾泰章に命じて顥を牙堂で斬らせた。徐温が顥を除いて国政を独占できたのは可求の力である。事が収まると揚州司馬を授けられた。

広陵の秉政と徐温への献策

  • のち徐温が潤州に鎮すると、子の知訓と可求を広陵に留めて政を執らせた。宿衛の将・馬謙と李球が乱を起こし、知訓が逃げ出そうとしたとき、可求は「公が衆を捨てて去れば、衆は何を頼りにするのか」と言い、戸を閉ざして寝て、いびきが外まで聞こえた。府中はこれで安定した。
  • 朱瑾の変では、徐温が使者を送って米志誠を殺そうとした。可求は志誠が命に抗うのを恐れ、計略で捕らえて斬った。
  • 徐温は朱瑾の一件で大量の殺戮を行おうとしたが、可求は徐知誥とともに、知訓が禍を招いた経緯を詳しく述べ、徐温の怒りはようやく和らいだ。
  • まもなく営田副使に改められた。武義元年(919年)、高祖が呉国王に即位すると門下侍郎に移り、順義年間に尚書右僕射を拝し、やがて同平章事を兼ねた。

後唐への対応

  • これより先、唐(後唐)と梁が戦い、呉に徴兵を求めてきたとき、徐温は両にらみで、海沿いに兵を出して勝った側を助けようとした。可求は強く反対して止めさせた。
  • のち唐が梁を滅ぼしたと通告してくると、徐温は「公は前に私の計を妨げた。今どうする」と責めた。可求は笑って「唐主は中原を得たばかりで志気は驕り満ちている。数年のうちに必ず内変が起こる。こちらは辞を低くし礼を厚くして境を保ち、待てばよいだけです」と答えた。
  • そこで司農卿の盧蘋を返礼の使者とし、可求は密かに数条を書いて授けた。蘋が洛陽へ行くと、問われたことはすべて授けられた通りで、それに従って答え、荘宗の意にかなって帰国した。まもなく荘宗が殺され、可求の言は的中し、徐温はますます重んじた。

将校の綱紀と晩年

  • 当時、徐知誥が政を握っていたが、四方に戦塁が多いため将校の扱いは大いに姑息であり、将校は狩りをし飲み集まって民を騒がせた。知誥は法で正したいが、その才力を惜しんで悩み、可求に諮った。
  • 可求は「わざわざ縛ろうとすれば切れやすくなります。泰興・海塩など諸県に檄を発して鷹や鸇の捕獲を禁じれば、命じずとも止みます」と答えた。知誥が従うと、ひと月のうちに村里を出歩く将校はいなくなった。
  • ほどなく左僕射に進み、大和二年(930年)に没した。その死は徐温の三年後であった。

可求と知誥の確執

  • 可求はもとより徐温に忠実で、日ごろから知誥は徐氏の実子でないとして、次子の知詢を知誥に代えて輔政させるよう再三勧めていた。知誥は内心これを深く忌んだ。
  • 天祐末、知誥は可求を楚州刺史として出そうと謀った。当時、高祖はまだ藩鎮を守る立場であった。可求は徐温の意がまだ満たされていないことを察し、命を受けるとすぐ金陵へ赴いて徐温に説いた。
  • 「唐が亡んで十二年になるのに呉はなお天祐の年号を改めていない。唐に背かなかったと言えます。しかし呉が四方を征伐して基業を建てたのは、常に唐の興復を名分としてきたからです。今、河上の戦いで梁兵はしばしば敗れ、朱氏は日々衰え李氏は日々盛んです。ひとたび李氏が天下を取れば、我らは北面して臣となれましょうか。今のうちに呉国を建てて民望をつなぎ止めるに越したことはありません」。
  • 徐温は果たして大いに喜び、可求を留めて赴任させず、礼儀の草案を作らせた。知誥は可求を除けぬと悟り、娘を可求の子・続に嫁がせた。

陽邑令の遺孤への報い

  • 可求が微賤のころ陽邑の吏であったとき、陽邑令は彼を器量ありと認めて賓客の礼で遇し、いつも「そなたは自愛せよ。いずれ人臣を極める地位に至る。そのときは我が遺孤に心を留めてほしい」と言っていた。
  • のち可求が公輔の地位に登ると、その令の子が遺言に従って訪ねてきた。可求は担ぎ荷ひと荷ほどの束帛を贈っただけで、気にも留めぬ様子であった。
  • ところがまもなく密かに人を遣わし、黄金数十斤を持たせて宿の門前で待たせ、「陽邑の宰の御子息ではありませんか。相君が旅費にとこの金を届けさせました」と詫びを述べさせ、さらに屋敷を一軒借り上げ、僕も馬もすべて用意してやった。
  • 令の子が後日、門に礼を述べに来ると、可求は「亡き御尊父の昔日の厚遇にいささか報いただけです」と言い、一度会ったきり終身、面会を断った。その権謀ぶりはこのようであった。

駱知祥

  • 駱知祥は合肥の人。財政に長け、事に当たれば直ちに処理した。
  • はじめ田頵に仕えて宣州長史となった。太祖が頵を殺すと、知祥を淮南支計官とした。精励して治め、事が滞ることがなかった。
  • 天祐年間、徐温が国政を執ると、知祥は厳可求と左右から協力した。可求は軍事を、知祥は財賦を司り、当時「厳・駱」と並び称された。
  • はじめて選挙(人材登用)の制が置かれると知祥がこれを主宰し、任用は人を得て、世人はその精密さに感服した。久しくして塩鉄判官を授けられた。
  • 武義元年(919年)、高祖が呉国王に即位すると中書侍郎に移った。
  • 知祥は徐知誥ときわめて親密で、知誥が可求を楚州へ出そうとしたときも、実際にその謀に加わっていた。数年後に病没した。

陳彦謙

  • 陳彦謙は常州の人。智略に富み、繁雑な事務の処理に長けた。高祖のとき潤州司馬となり、徐温にひどく信任された。
  • 徐温が昇州を巡視して、その繁栄を喜んだとき、彦謙は鎮海軍の治所をここへ移すよう勧めた。徐温は従い、彦謙を鎮海節度判官とした。
  • 徐温は軍国の事について大綱を挙げるだけで、細務はすべて彦謙に委ね、江淮はよく治まったと称された。
  • 武義元年(919年)、徐温が無錫で呉越兵と戦ったとき、徐温は熱病で軍を指揮できなくなった。彦謙は中軍の旗鼓を左に移し、徐温に容貌の似た者を選んで甲冑を着せ、軍令を発させた。徐温はそのおかげで少し休むことができた。その臨機応変ぶりはみなこの類であった。
  • まもなく楚州団練使を兼ねた。病が重くなったとき、徐知誥は彦謙が遺言で後継のことに触れるのを恐れ、医薬や金帛を道に絶えぬほど贈ってその心を引き寄せようとした。
  • 彦謙は密かに徐温に書を遺し、実子を嗣とするよう勧めて没した。
  • これより先、金陵の造営が成ったとき、彦謙が費用の帳簿を徐温に差し出すと、徐温は「私がすでに公に任せているのに、なぜこんなもので煩わせるのか」と言い、ついに会計を検めなかった。徐温は終始腹心として用いたので、彦謙もまたこれをもって報いたのである。

史論(嚴可求ら三人)

  • 論に曰く。可求は謀に巧みで的中することが多く、機を運らして測り知れず、算を握れば神のごとくであった。その智が人に過ぎていたからではないか。知祥は財政に心を尽くし、一心に治世を助け、可求と並び称されたのももっともである。彦謙は庶務に奔走し、終始その志を変えなかった。彼もまた東海(徐温)の功臣と言ってよい。

盧樞

  • 盧樞は出身地が原文で欠けている。高祖のとき御史台主簿となった。
  • 武義元年(919年)、高祖が民間の武器私蔵を禁じたところ、盗賊がかえって増えた。樞は「今は四方が争っており、民に戦を教えるべきです。しかも善良な者は法禁を畏れ、奸民のほうが武器を弄ぶ。これでは武を偃せようとしてかえって盗を招くことになります。民兵を団結させ、戦を習わせて郷里を自衛させるべきです」と上言し、聞き入れられた。

王潛

  • 王潛は廬州の人。はじめ太祖の幕府にあり、高祖に仕えて歴任し左司郎中となって選挙の事を司った。
  • 当時は喪乱の後で官は職掌を失い、甲簿(人事の記録)も散逸していた。潛は鷹揚に構えず丁寧に人と接し、座に客が絶えず、才に応じて用いたので、誰もが納得した。
  • 徐知誥が宰相となってから人材選抜に秩序ができたのは、潛の力である。

楊廷式

  • 楊廷式、字は憲臣、泉州の人。正直で強者を恐れなかった。武義初、官は侍御史知雑事に至った。
  • 当時、張崇は徳勝節度使で貪暴・不法であった。廬江の民が県令の収賄を訴えたので、徐知誥は廷式を派遣して取り調べさせた。
  • 廷式は「雑端(知雑事)が事を推すのは体面が重く、職務を果たさぬわけにはいきません」と言った。知誥が「どうする気か」と問うと、「張崇を械につないで昇州へ吏を遣り、都統を簿責します」と答えた。
  • 知誥が「取り調べる相手は県令だ。そこまでするのか」と言うと、廷式は「県令は下級の官。張崇が県令に民の財を取らせ、それを都統に献上させているのです。大を捨てて小を問うてよいものですか」と答えた。「都統」とは徐温のことである。
  • 知誥は詫びて「もとより小事で煩わせるべきでないと分かっていた」と言い、これでますます廷式を重んじた。
  • 廷式は夢占いに長けていた。県令の毛貞輔が広陵で選に応じていたとき、ある夜、口の中に日を呑む夢を見て、目が覚めても腹が熱かった。廷式に問うと、「この夢はきわめて大きく、あなたが当たれるものではありません。あなたに引き当てて言うなら、赤烏場の場官になるでしょう」と答え、果たしてその通りとなった。

徐融

  • 徐融は出身地不明。斉王・徐知誥が国政を執ったとき、融は宋斉丘・曽禹・張洽・孫飭らとともに知誥の賓客となった。
  • 剛直率直で、人に迎合することが少なく、身は斉王の幕にありながら、心は実は楊氏に向いていた。
  • 知誥はすでに異心を抱いており、僚属をそれとなく動かそうとした。ある大雪の日、酒が進んだところで知誥は「ただ酒を回すだけでは面白くない。雪の意味と古人の名がうまく合うものを口令にしよう」と言い、盃を挙げて「雪が紛々と降る、まさに白起(白く起こる)だ」と言った。宋斉丘が続けて「屐を履いて階を登るには、雍歯(歯=屐の歯)が要る」と言った。
  • 融は知誥をやり込めようとして、すかさず「明朝、日が出たら蕭何(何ともしがたい)」と言った。知誥は激怒し、その夜、融を捕らえて長江に投じた。以後、謀議に与るのは斉丘だけとなった。

汪台符

  • 汪台符は歙州の人。若くして学を好み経籍に博通し、文章に巧みで浮薄に走らず、王を匡し覇を定める才があった。
  • 天復初(901年)、陶雅の幕客となったが、やがて天下が兵戦に苦しむのを見て郷里に住み、鋤を執って農に励んだ。
  • 睿帝のとき、徐知誥が金陵に鎮すると、台符は草莽から上書し、民間の九つの患いと利害十余条を陳べた。
  • 上書は宋斉丘に妨げられた。斉丘は「言葉はあっても実行できまい」と言い、知誥は猶予して信じなかった。
  • 斉丘ははじめ字を「超回」(顔回を超える)といった。台符は書を送って「足下は先聖に斉しいとして名を立て、亜聖を超えると称して字とされているとか」と嘲った。斉丘は恥じて字を「子嵩」と改めたが、これで大いに怒り、密かに人を遣わして台符を舟遊びに誘って痛飲させ、石頭の蚵蚾磯の下で沈めて殺した。
  • 知誥はこれを聞いて長く嘆息し、大いに悔やんだ。
  • 台符はかつて田賦の括定を請い、正苗一斛につき別に三斗を納め、官が塩一斤を給する方式を提案した。これを塩米といい、倉に入れれば䕠米(保管加算分)が付いた。大和末に知誥が民に米を納めさせて塩を請わせたのは、この方式である。
  • 南唐の昇元年間には、民の田と資産の高下を三等に区分し、均輸を課して制度と定めた。また商売には征税を、舟運には力勝(積載課税)を課したが、いずれも台符の言によるという。
  • 台符には「歙州汪王廟記」があり、文辞は奇抜で深遠、当時大いに称賛された。

江夢孫

  • 江夢孫、字は聿修、潯陽の人。経史に博通し、行いは高潔であった。
  • 大和年間、中書令の徐知誥が表して秘書郎とした。夢孫はしばしば自ら「迂儒で役に立たない。生涯読書してきたので、民を治めることを少し試したい」と言い、県令を望んだ。
  • 当時、知誥の食客はみな功名富貴を自負していたが、夢孫だけは望みを持たなかった。知誥は本心でないと疑い、許さなかった。長く求め続けたので、ついに天長令に補した。
  • 知誥はまず告身を見せて「今日これを受ければ、明日から庭下を走り回ることになるぞ」と言った。夢孫は「それが元来の志です。何のさしつかえがありましょう」と答えた。
  • 天長に着くと、吏は「県庁の庁舎には淫らな祟りがあって住めません」と告げた。夢孫は「長吏が堂皇に座らぬのは非礼だ」と言った。その夕、果たして怪異が続出した。夢孫は起きて香を焚き、「私は命を受けて令となり、ここで政務を執るべき者だ。鬼神には祠廟も丘墓もある。なぜそれぞれの所へ帰らぬのか。私は暗室でも欺かぬ行いをしている。お前たちを何で畏れよう」と言った。語り終わると怪異はみな跡を絶った。
  • 夢孫は寛やかで簡素な治めをし、吏民は安んじた。一年余りで官を捨てて去るとき、県人は号泣して数十里まで送った。
  • 家に帰ると継母に孝を尽くし、朝夕に衣冠を整えて食事を見届け、母が食べ終わって膳を下げると、諸生のために礼を講じ経義を説いた。疑わしい箇所に至るたび、襟を正して「この条は先儒でもなお異説が多い。夢孫がどうして軽々しく言えよう。諸君それぞれ長ずるところを選ばれよ」と言った。
  • 南唐の保大年間に没した。年八十五。国子司業を追贈された。葬儀の日には遠方から来た者が千人、喪服を着けた者が百人ほどに及んだ。

史論(盧樞ら六人)

  • 論に曰く。盧樞は一言で民兵を団結させた。まことに深く遠くまで慮ったと言える。王潛が銓衡を司り、楊廷式が台官の職にあったのは、いずれもその官に恥じない働きであった。徐融は諷刺の言で禍を買い、汪台符は献策で身を喪った。その人物は嘉すべきだが、身を全うする智にはやや暗かった。江夢孫は進退を誤らず、身を低くして自らを養った。まさに盛徳の士というべきであろう。

鍾泰章 ── 張顥誅殺

  • 鍾泰章は合肥の人。勇敢で胆略があり、烈祖のとき左監門衛将軍となった。
  • 高祖が位を襲いだ当初、徐温は張顥と権を争い、顥を刺殺したかったが適任者に困っていた。厳可求が徐温に「鍾左衛でなければ無理です」と言い、徐温は親将を遣わして密かに泰章に伝えさせた。
  • 泰章は内心喜び、壮士三十人を選び、牛を殺してもてなし、夜に血をすすり合って誓った。徐温はなお彼が怯むのではと疑い、夜半に中止させようとして「私には老母がいる。事が成らぬのが心配だ。ゆっくり図ってはどうか」と言わせた。泰章は勃然として「一度口に出したことを、やめられるものか」と答えた。
  • 翌日、ついに顥を誅した。徐温はこれによって顥の弑君の罪を天下に暴いた。

冷遇と晩年

  • まもなく叛乱鎮圧の功を論じたが、泰章の賞だけが薄かった。酒に酔うたび功を恃んで諸将と張り合って争ったので、泰章は不満を抱いていると言う者もあり、徐知誥は制しがたいと疑った。
  • 徐温は「これは私の過ちだ。かつて一族皆殺しの禍が髪一筋の差だったとき、泰章がいなければ今日の富貴があろうか。つまらぬ小事で疑うことはない」と言い、ようやく滁州刺史に引き上げた。
  • のち周本に従って蘇州を囲み、本が黄天蕩で敗れたとき、泰章は精兵三百を率いて殿軍となり、菰や真菰の中に旗を多く立てたので、追兵は迫れず、無事に帰還した。
  • 久しくして寿州団練使に移った。順義年間、官馬を横領していると告げる者があり、知誥は王命として王稔を代わりに遣わし、泰章を饒州刺史に改めた。
  • 徐温は泰章を金陵に召し、陳彦謙に三度問い質させたが、いずれも答えなかった。ある者が「なぜ自ら弁明しないのか」と言うと、泰章は「私は揚州の十万の軍中で壮士と称された。寿州は淮からわずか数里、歩騎も五千を下らない。もし他意があったなら、王稔が単騎で代われるものか。私は義として国に背かぬ。県令に落とされても行くのに、まして刺史ならなおさらだ。なぜ自ら弁明して朝廷の落ち度を明らかにする必要があろう」と答えた。
  • 当時、知誥は法で諸将を締めようとして泰章の収監と治罪を請うたが、徐温は許さず、泰章の次女を知誥の長子に娶せるよう命じた。これが南唐の光穆皇后である。

翟虔

  • 翟虔は彭城の人。閤門使から起家し、かねて徐温に信任されていた。
  • 鍾泰章が張顥を刺したとき、徐温は実際には翟虔を使って密謀を通じさせ、事の後に牙城の門を閉ざさせて成功に導いた。
  • ほどなく王府子城使に移った。朱瑾が徐知訓を殺したときは、府門を閉ざして府兵を率いて討ち、瑾は死んだ。
  • まもなく武備使に改められ、睿帝の起居を監察させられた。虔の統制はきわめて厳しく、睿帝はとても堪えられなかった。
  • 順義四年(924年)、睿帝が迎鑾鎮を巡行したとき、徐温が金陵から来朝した。睿帝は徐温に対して「雨」を必ず「水」と言い換えた。徐温がわけを尋ねると、「翟虔の父の名なので、避けるのが習い性になった」と答え、さらに「公の忠誠は私も承知している。しかし翟虔は無礼で、宮中や宗室が必要とするものも多くは手に入らない」と言った。
  • 徐温は頓首して謝罪し、斬るよう請うた。睿帝は「斬るのは行き過ぎだ。遠くへ移せばよい」と言った。そこで撫州へ移され、そこで没した。

韋建

  • 韋建は若くして太祖の軍中にあり、常に従軍して膂力で知られた。のち虔州の王綰に属して裨将となった。
  • 郡境は広く、周囲は谿洞に接して群盗が満ちていたが、建は勇士を励まし率いて到る所で捕らえ、百姓はその恩恵に頼った。
  • 累進して諸軍都虞侯・左街使となり、袁州刺史として出た。建は学問はなかったが性質は篤実で、清静に身を処し、民を侵し騒がすことがなかったので、郡中は大いに治まった。
  • 数年後、入って統軍となり、睿帝に仕えてきわめて謹直であった。南唐の禅代のとき武昌軍節度使として出、八十歳で没した。

高審思

  • 高審思は若くして太祖に仕え、驍勇で軍中に名があった。劉信が虔州を平定したとき裨将として、たびたび戦功を立てた。
  • 人となりは重厚寡黙で、斉王・徐知誥はこれを奇として、常に親兵を統べさせた。禅代のとき寿州節度使を拝し、中書令を加えられた。
  • 城隍を増修し守備をきわめて厳しくした。ある者が「公の威略でこの堅城を守るのに、何を懼れてそこまで臆病に振る舞うのか」と言うと、審思は「兵機は変化が多い。懼れずにはいられない。備えあれば患いなし、それが上策だ」と答えた。
  • のち後周の軍が南侵したとき、寿州はにわかには落ちず、人々はみな審思の遺した業績を偲んだという。
  • 七十八歳で鎮所において没し、諡は忠。
  • はじめ、占い師は審思の位は刺史に及ばないと言った。あるとき常州刺史を命じられたが固辞して赴かず、その後、位は将相を兼ねて終始富貴であった。占いの当てにならぬことはこの通りである。

李章

  • 李章は廬州廬江の人。中和三年(883年)、王稔とともに太祖の騎将となった。のち朱瑾と親しくなった。
  • 高祖のとき、瑾が徐知訓を殺して自刎すると、徐温は入って瑾の一党を誅した。章を含む同僚六人が斬罪となり、五人まで斬られて章の番になったとき、章は声を張り上げて「四方に戦塁が多いというのに、壮士を斬るのか」と叫んだ。
  • 監斬役の馬仁裕はその言葉を壮として徐知誥に伝え、章は釈放された。
  • のち洪州に属して軍校となり、累進して雄武軍都虞侯・左街使となった。章は老いても気概は盛んで、士卒をよく労わり職務に励んだ。
  • 睿帝のとき百勝軍節度使として出、政は厳重で、側近を取り締まり、僚属を賓客の礼で遇した。
  • 南唐が禅譲を受け、周本が死ぬと、章は廬州に鎮を移され、中書令を加えられた。昇元四年(940年)秋八月に没した。年九十。

王令謀

  • 王令謀はもと徐知誥の食客。はじめ昇州判官となり、のち揚府左司馬に改まり、内枢使に転じた。
  • 乾貞年間(927-928年)、徐知詢が金陵で兵を握り、知誥と互いに猜疑した。知誥はこれを憂えた。
  • 令謀は知誥に「公は輔政すること久しく、天子を挟んで境内に令している。誰が従わずにいられましょう。知詢は年若く、恩信もまだ人に行き渡っていない。何もできません」と説いた。
  • まもなく同平章事に移り、大和三年(931年)に左僕射兼門下侍郎に進み、宋斉丘とともに同平章事となった。同六年(934年)に司徒を拝し、のち忠武軍節度使を領した。
  • 天祚三年(937年)、令謀は金陵へ行って知誥に禅譲を受けるよう勧めたが、知誥は辞して受けなかった。九月癸丑に没した。
  • 令謀は生来柔軟で狡猾、志操に乏しかった。老病で歯もなくなり、致仕を勧める者もあったが、令謀は「斉王の大事がまだ済んでいない。どうして自ら安んじられようか」と言った。病が重くなってもたびたび上書して勧進した。
  • その年十月に禅代が行われたが、令謀は先に死んでその志を遂げられなかった。