十国春秋卷九 列傳 王壇
婺州を取りて後に降る
- 王壇はもと孫儒の隊将であった。孫儒が敗れると、その党三千人を率いて睦州の陳晟のもとへ奔ったが、陳晟は頗るこれを疑い、外城に置いた。
- ほどなく王壇は三河鎮将の陳厳とともに婺州を攻め、婺州刺史の蒋環は会稽に奔り、王壇はついにその地を有した。
- ほどなく東陽鎮将の王永と相ともに呉越を攻めた。武粛王(銭鏐)は当時鎮海鎮東節度使であり、兵を罷めるよう論したが従わなかったため、師を興してこれを討たせた。
- 光化三年、師は敗れ、宣州に奔った。田頵はこれを用いて親将とした。田頵が敗れると、王壇は太祖に降り、淮南節度副使に除せられた。
- 天祐九年、出でて宣州制置使となり、李遇の不朝の罪を数え立てた。数年居て卒した。