十国春秋卷八 列傳 鍾匡時

鎮南軍を継ぎて滅ぶ

  • 鍾匡時は洪州高安の人である。父の鍾伝は鎮南軍節度使となった。折しも危全諷・韓師徳らが諸州を分拠しており、鍾伝はみなこれを節度することができなかったが、兵をもってこれを攻めると次第に命に従うようになった。
  • ひとり危全諷だけが撫州を守って攻め落とせなかったので、みずから兵を率いてその城を攻めたところ、城中に夜、火が起こった。諸将は急いで攻めることを請うたが、鍾伝は「私は君子たる者は人の危急に乗じないと聞いている」と言い、地を掃って天を祭り、城に向かって再拝し祝って言った。「危全諷が降らないのは民の罪ではない。願わくは天よ、火をお止めください」と。
  • 危全諷はこれを聞き、翌日ついに命に従い、娘を鍾匡時に娶らせることを請うた。鍾伝は江西に居ること三十余年、官を重ねて太保・中書令となり南平王に封ぜられた。
  • 天祐三年、鍾伝が卒すると、鍾匡時は自ら留後を称して唐に命を請うた。危全諷は「鍾郎が節度使となるのに任せよう。三年たったら私が自らこれになろう」と言った。
  • ほどなく鍾伝の養子の鍾延規が鍾匡時と地位を争って立とうとし、烈祖に兵を乞うた。烈祖は秦裴らを遣わして鍾匡時を攻めさせ、鍾匡時は敗れて捕らえられ、広陵に連れ帰られた。
  • ほどなく危全諷は江西で兵を起こし、鍾氏の故地を復すことを謀ったが、大将の周本に敗れ、江西はついに(呉の)版図に入った。