十国春秋卷八 列傳 李儼

張濬の子、変死す

  • 李儼は唐の宰相張濬の末子である。初めの名は休、一名は播といった。昭宗に仕えて校書郎から身を起こし、官を歴任して左金吾将軍に至った。
  • 天復二年、いまの姓名を賜り、江淮宣諭使として御札を捧げ、巫峡の間道からひそかに行き、太祖を東面行営都統・中書令に拝し、爵を進めて呉王とし、朱全忠を討たせた。
  • ほどなく朱全忠が鳳翔を克ち、また張濬を長水で殺したため、李儼はそのまま広陵に留まり、あえて帰らなかった。
  • 李儼が広陵にあると、太祖は甚だこれを尊崇し、王の使者としての礼をもって遇した。着任した当初、太祖は制勅院を建て、国に封拝あるごとにまずこれを李儼に告げ、しかるのちに下した。
  • 太祖が世を去ると、諸将はまた李儼のもとに詣で、その承制(皇帝の意を承けての裁定)によって烈祖を弘農郡王に授けた。
  • しばらくして貧困に陥り、寄る辺もなく海陵に寓居し、しきりに朱瑾と交わり好しみを結んだ。徐知訓が死んだとき、徐温は李儼が謀に通じていたことを疑い、ついに殺された。国人はこれを寃罪だとした。