十国春秋卷七 列傳 王茂章
要約
王茂章は廬州合肥の人で、幼くして太祖に従い側近の親校となった。人となりは驍果剛悍で威儀を気にかけず、常に自ら士卒の先頭に立った。朱全忠の従子友寧が青州の王師範を攻めた際、太祖の命で七千の兵を率いて救援に赴き、柵の攻防で夜通し兵を控えて敵の疲弊を待ち、明け方に出戦して友寧を斬るという大功を挙げた。朱全忠自ら「これを得て将とすれば天下平定に難くない」と評したという。汴軍の追撃に対しては裨将李虔裕を犠牲にしつつ全軍を保って帰還した。
太祖薨去後、烈祖が宣州から広陵に入って王位を継いだ際、茂章は宣州守備の帷幕や親兵の引き渡しを拒んで対立し、兵を率いて攻められ杭州へ出奔した。呉越の武粛王(銭鏐)に迎えられ、梁の家諱を避けて景仁と改名、寧国節度使に領された。撫州の危全諷との会見では呉軍の実力を誇張して警告し、全諷は結局この助言を軽んじて敗れ、人々は景仁の用兵眼を称えた。のち梁に召されて節度使・同平章事となったが重用されず、柏郷での梁の大敗ののちも梁末帝の下で淮南招討使に任じられ、独山の武皇帝(太祖)の祠で涙し号泣したという。霍山の戦いでは殿を務めて力戦し梁軍の大敗を防いだが、まもなく疽を病んで汴で没し、太師を贈られた。
現代語訳全文
出奔の名将
- 王茂章は廬州合肥の人である。幼くして太祖に従って淮南に起ち、常に側近に仕えて親校となった。人となりは驍果剛悍で質朴粗野、威儀を気にかけず、敵に臨んでは自ら士卒の先頭に立つことに努めた。太祖はこれを壮とした。
- 梁王朱全忠は従子の友寧を遣わして王師範を青州で攻めた。師範は太祖に兵を乞い、太祖は茂章に歩騎七千を率いさせてこれを救わせた。師範は兵をもって城を背に二つの柵を築いた。友寧が夜にその一つの柵を撃つと、柵中は急を告げ、茂章に出戦を促したが、茂章は兵を控えて動かなかった。友寧は既に一つの柵を破り、戦いを続けてやまなかった。夜明けに至り、茂章は友寧の兵が既に疲弊していると見極め、そこで出戦して大いにこれを破り、ついに友寧を斬ってその首を太祖に報告した。
- この時、梁王全忠はちょうど鄆州を攻めていたが、友寧の死を聞くと、兵二十万をもって道を倍にして急ぎ到着した。茂章は塁を閉ざして怯えを装い、汴の兵が怠るのをうかがって柵を壊して出撃し、馬を駆って疾戦し、酣となると退いて座り、諸将を召して酒を飲んだ。その後再び戦った。全忠は高所に登ってこれを望み見て、青州の降人を得て「酒を飲んでいたのは誰か」と尋ねると、「王茂章です」と答えた。全忠は嘆いて、「私がこの人物を得て将とすることができれば、天下を平定するに足りないことはあるまい」と言った。
- 汴の兵はまた敗れ、茂章の軍は帰還した。汴の兵が急ぎこれを追ったが、茂章は逃げることができないと判断し、裨将の李虔裕に一旅の兵を率いさせて山下に伏兵を設けさせて待たせ、自らは軍を留めて進まず、鞍を解いて寝た。虔裕が急いで、「追撃の兵が来ました、速やかに逃げるべきです」と呼びかけたが、虔裕は死をもってこれを遮ると言い、茂章は「私もここで戦おう」と言った。虔裕が三度請うたので、茂章はようやく出発したが、虔裕はついに戦死した。汴の兵はそのため追いつくことができず、茂章は全軍を保って帰った。
- 茂章は官を累ねて潤州団練使に至った。太祖が薨じ、烈祖が宣州から入って(呉王の位に)立つと、茂章に代わってその地を守らせた。烈祖が宣州を去るとき、帷幕および親兵を持って行こうとしたが、茂章はこれを惜しんで与えなかった。烈祖は怒り、既に王位を襲うと、兵をもってこれを攻めた。茂章は杭州へ逃れた。
- 呉越の武粛王はこれを鎮東節度副使とした。梁王全忠の家の諱を避けてその名を改めて景仁とした。その後、寧国節度使を領した。まもなく梁王が帝を称すると、かねてより景仁の名を知っていたので、人を遣わしてこれを召した。景仁は間道を通って梁に帰る途中、撫州を通過した。危全諷はちょうど我が国と兵を構えて互いに攻め合っていたが、そこで兵を布陣させ景仁とともに城に登ってこれを望んだ。景仁は「私はもとより呉に仕えていたので分かるが、呉の兵は三等級に分かれ、公のようなこの軍勢は最下等の将に相当するに過ぎない。十万を増員しなければ勝つことはできない」と言った。全諷は結局これによって敗れた。人々は皆景仁を用兵に通じた者だと称した。
- 景仁は汴に至ると、なお寧国軍節度使とされ、同中書門下平章事を加えられたが、久しく用いられることがなく、宰相の班に参列して朝請を奉ずるのみであった。数年ののち、梁の太祖は北面招討使に任じ、晋人と戦ったが柏郷で大敗した。梁の太祖は「私もそのことを知っている。思うに韓勍・李思安がお前を客として軽んじ、その指揮に従わなかったからだろう」と言った。
- 梁の末帝が即位すると、景仁を淮南招討使とし、廬州・壽州を攻めさせた。軍が独山を通過した際、山には武皇帝の祠があり、景仁は再拝し号泣して去った。霍山で戦い、梁の兵は敗走したが、景仁は殿(しんがり)となって力戦したので、梁の兵はそれほど大敗しなかった。景仁は汴に帰り、疽を病んで卒した。太師を贈られた。