吕師造
- 呂師造は揚州の人である。太祖に従って淮南に起ち、都将となった。天復元年(901年)、李神福が杭州を攻めた際、浙の将顧全武は八つの寨を列ねてこれに備えた。神福は師造に青山の下に伏兵を置かせ、偽って兵を退いて全武を誘わせ、伏兵が発すると全武は捕らえられた。
- 天祐年間の初め、再び周本に従って衢州刺史陳璋を援けた。ちょうど浙の兵が衢州を取りに来ると、師造は本に、「敵は我らからわずかな距離にありながら陣を動かさない。これは我らを軽んじているのだ。必ずこれを撃つべきだ」と言った。本はその言葉を全ては用いなかったが、この日、道の途中で浙軍を破ることができ、師造には実にその力があった。
- まもなく南面都統軍使に任じられ蘇州を攻めたが功なく、その後さらに周本に従って南征し、苑玫を上高で破り、池州団練使に遷った。しばらくして、楚が鄂州に侵攻すると、高祖は師造に水陸行営応援使を命じて楚の軍を防がせたが、到着しないうちに楚の軍は撤退した。饒州刺史に改められた。
- 師造は太祖・その子父子二代に仕え、南北の征伐に多く従軍し、赴くところ必ず鋒先を摧き陣を破った。官を累ねて光禄大卿・検校太保兼御史大卿に至った。
- 師造が池州にいた日、かなり財を集めることに熱心であった。あるとき娘を揚都に嫁がせるにあたり、持参財を非常に手厚くし、家人に送らせた。夜、竹篠江のほとりに舟を泊めたとき、道士が突然舟中に躍り入り、舟を突き抜けて通り過ぎたが、その通った跡から火が発生し大いに燃え上がった。また後方の舟を越えると、火もこれに従った。ただ一人の老婆だけは髪が一尺あまり焼けたものの、人と舟には全く損害が無かった。道士もまた再び姿を見せなかった。人々は皆これを不思議に思った。