十国春秋卷六 列傳 周隱
誅殺された忠臣
- 周隠は舒州の人である。性格は愚直で、仕えている事には忠実であったが、物事の情理には疎かった。太祖の時、淮南節度判官の官にあった。
- 太祖の病が重くなり、烈祖を召すよう命じたとき、隠は進み出て、「宣州司馬(楊渥)は軽々しく讒言を信じやすく、毬打ちや飲酒を好み、家を保つ主ではありません。他の子はみな幼く、まだ諸将を統率することができません。廬州刺史の劉威は王に従って微賎の頃から起った者で、王に背くことはないでしょう。彼に軍府を代行させ、諸子が成長するのを待ってこれを授けるのがよいでしょう」と言った。太祖はこれに応じなかった。
- 左右牙指揮の徐温・張顥は太祖に、「王は平生、万死をくぐり抜け矢石を冒して子孫のために基業を立てられたのです。どうして他人にこれを持たせられましょうか」と言った。太祖は「私は死んでも瞑目できよう」と言い、そこで隠に命じて急ぎ長子の渥を召させた。
- 烈祖が嗣立するに及んで、大いに隠を罵り、「お前は人の国を売った。今さらどんな面目があって楊氏に会えるのか」と言い、ついにこれを殺した。これより将佐は皆自ら安んじられなくなった。
史論
評して言う。呂珂・賈令威・瞿章・賈公鐸・李濤の諸人は皆、興陵従軍の傑物である。袁禎は主に背く者の姦計を見抜き、丁袗は身を保つ哲を専らにした。まさに機微を知る神妙さと言うべきである。周隠は謀りごとが良くなく、直言によって禍を招いた。惜しむべきことである。