十国春秋卷六 列傳 秦裴

秦裴

  • 秦裴は、はじめ太祖に従って牙校となり、兵三千を率いて崑山を攻めてこれを抜き、その地を守備した。光化元年(898年)、浙の将顧全武が蘇州を攻め陥落させたが、裴だけは崑山を守って陥落させられなかった。裴は常に弱兵に旗幟を持たせ、壮健な者に弓弩を引かせ、矢を放つたびに必ず重鎧を貫いたので、全武はこれによって数回撃退された。
  • その後、食糧が尽きて降伏した。彭城王銭鏐がその久しく抵抗した状況を詰問すると、裴は答えて、「力が尽きて降ったのであり、心から降ったのではない。裴は義として楊公に背くことはできない」と言った。王はその言葉を善しとしてこれを釈放した。浙にいること四年、再び還ることができた。まもなく昇州刺史を授けられた。
  • 烈祖の時、西南行営都招討使に任じられ、兵を率いて鍾匡時を江西で撃った。裴は洪州に至ると、蓼洲に軍を布いた。諸将は水を阻んで寨を立てることを求めたが、裴は許さなかった。まもなく匡時の将劉楚が到着し、果たしてその地に拠った。諸将は裴を咎めたが、裴は「匡時の驍将はただ楚一人である。もし大軍で城を守れば、にわかには抜けない。私はまさに要害の地をもってこれを誘い出そうとしていたのだ」と言った。
  • しばらくして寨を破って楚を捕らえ、進んで洪州を包囲した。饒州刺史唐宝が降を請い、裴はついに洪州を陥落させ、匡時とその司馬陳象を捕らえて帰った。敵に勝った功を論じられ、洪州制置使に改められた。
  • 指揮使の朱思勍・范思従・陳璠が江西の守備に従っていたが、この三人はもとの烈祖の腹心であった。ちょうど徐温らが内心この三人を忌んで、別の将を裴のもとに遣わしてこれを殺させた。裴はこのため鬱々として楽しまず、まもなく卒した。