十国春秋十國春秋卷六 吳六 列傳(柴再用・秦裴・劉金ほか)
柴再用 名の由来と武功
- 柴再用は汝陽の人。初名は存といい、孫儒の麾下に属していた。ある小校と死を誓う友となっていたが、その小校が謀反したと告げる者があり、孫儒は小校を斬り、あわせて存も捕らえて「なぜ叛いたか」と詰問した。存が答えないので、さらに「彼と死を誓った友なら、彼が叛けば同じく叛くだけのこと。公が誅されたうえ、なお何を問われるのですか」と言った。孫儒は大いに感心して「お前は確かに叛かぬ。私はお前を再び用いよう」と言い、今の名に改めさせた。
- やがて孫儒が敗れると太祖に帰し、都押牙となった。勇敢で戦上手、向かうところ勝ちを収めた。
- 乾寧二年(895年)、李厚を助けて汴兵を撃退し、寿州団練副使を授かった。賈公鐸・馮敬章を説いて降し、功を論じてまもなく光州刺史に移った。
- 天祐二年(905年)、梁王朱全忠が光州を通り、再用に「私に降れば蔡州刺史にしてやる。降らねば城を屠る」と言った。再用は守備を厳重にしたうえ、戎服で城に登って全忠に会い、偽って礼を尽くし、たいへん恭しく伏して「光州は城が小さく兵も弱く、王のご威光を煩わすに足りません。王がまず寿州をお下しになれば、命に従わぬはずがありましょうか」と言った。全忠は十日ほど留まって去った。
- その後、全忠が淮を越えると、再用はその後軍を襲い、捕虜と斬首は数千、輜重財貨も数え切れぬほど獲た。まもなく指揮使に改められた。
- 天祐五年(908年)、呉越の将張仁傑を魚蕩で破り、先登して陣を陥れ、東洲を回復した。この日の交戦のとき、再用の舟が突然壊れ、長矛を浮かべてかろうじて渡った。家人が千人の僧に食を施して冥福に報いようとしたが、再用はその食をすべて取り上げて兵を犒い、「私を救ったのは士卒だ。僧に何の力があろう」と言った。
- まもなく宣州観察使の李遇が交替に応じないと、再用は兵を率いて王壇を送り込み、あわせて李遇を入朝させようとし、ついに計略で遇を殺した。
- ついで兵を率いて劉崇景を討ち、万勝岡で楚の軍を大破して、また功があった。
- 武義元年(919年)、高祖が呉国を建てると左龍武統軍を拝した。数年後に武昌軍節度使に任ぜられ、さらに馬軍都指揮使に改められたが、戎服のまま入朝して弾劾された。久しくして徳勝軍節度使・兼中書令を重ねて加えられた。
- 太和七年(935年)夏六月、病で卒した。
- かつて史官の王振が再用に戦功を尋ねたとき、再用は「鷹や犬ほどのわずかな働きで、すべては社稷の霊のおかげだ。私に何の功があろう」と言い、ついに答えなかった。またあるとき、後苑で家の楽を鑑賞していると、門の隙間から覗く者がいた。再用は後苑に呼び入れて「隙間風でお前の目を傷めては困る」と言った。その長者ぶりはおおむねこのようであった。
- 一説に、再用が牙将だった頃、大雷雨があって家の者は皆隠れたが、再用だけは端座して動かなかった。まもなく襦袴を着けた四人が現れ、再用の座る古い寝台ごと庭へ担ぎ出した。直後にまた大きく震動して屋根が折れ、そこから龍が出たという。
- また武義年間、再用が庁舎に独り座っていると、鼠が庭に来て手を組んで拝礼するような姿で立った。再用は怒って左右を呼んだが誰も来ず、自ら立って追い払ったところ、屋根の梁がにわかに折れ、座っていた寝台や机はすべて砕けた。人々はその不思議を語り合った。
秦裴 崑山の籠城と江西平定
- 秦裴は初め太祖に従って牙校となり、兵三千を率いて崑山を攻め落とし、その地を守った。
- 光化元年(898年)、浙将の顧全武が蘇州を攻め落としたが、秦裴だけは崑山を守って落とせなかった。裴はつねに弱兵に旗を持たせ、屈強な者に弓弩を引かせ、放つ矢は必ず厚い鎧を貫いた。全武は幾度も撃退された。やがて食糧が尽きて降伏した。
- 彭城王銭鏐が長く抵抗した理由を問うと、裴は「力尽きて降ったので、心から降ったのではありません。裴は義において楊公に背けないのです」と答えた。王はその言葉を立派だとして釈放した。浙に四年いてようやく帰ることができ、まもなく昇州刺史を授かった。
- 烈祖の時、西南行営都招討使として江西の鍾匡時を討った。裴は洪州に着くと蓼洲に軍を置いた。諸将は水を隔てて寨を立てるよう請うたが、裴は許さなかった。まもなく匡時の将劉楚が来て、果たしてその地を占めた。諸将が裴を責めると、裴は「匡時の驍将は劉楚ただ一人。彼が衆を率いて城を守れば急には落とせない。私はまさに要害の地で誘い出したかったのだ」と答えた。
- まもなく寨を破って劉楚を捕らえ、進んで洪州を囲んだ。饒州刺史の唐宝が降を請い、裴は洪州を陥れて匡時とその司馬陳象を捕らえて帰った。
- 敵を破った功を論じて洪州制置使に改められ、指揮使の朱思勍・范思従・陳璠が江西の守りに従った。この三人はもと烈祖の腹心である。徐温らが内心この三人を忌み、別将を裴のもとへ遣わして殺させた。裴はこれ以来鬱々として楽しまず、まもなく卒した。
劉金(子の劉仁規) 濠州三代
- 劉金は曲渓の人。太祖が兵を率いて天長に至ったとき、金は高霸らとともに衆を挙げて帰属した。三十六英雄の一人に数えられる。官は濠州団練使に至り、威名は大いに震い、濠州の人に称えられた。
- 天祐二年(905年)十一月に卒し、太祖はその子の仁規に濠州を知させた。仁規はかなり苛酷で、政の執り方は衆心に適わなかった。官は清淮軍節度使に至って卒した。
- その子の崇俊もまた濠州刺史となり、三代にわたって濠梁を治め、当時の栄えとされた。
李友
- 李友は合肥の人。太祖が淮南で挙兵すると麾下に属した。胆勇があり、よく士卒を撫でた。
- 大順元年(890年)、兵二万を率いて青城に屯し、常州の地を略した。ついで進んで蘇州を落とし、浙将の沈粲を敗走させた。先を争って陣を突き、勇は一軍に冠たるものであった。尚書・蘇州刺史に移った。
- まもなく孫儒が蘇州を陥れ、李友は殺された。太保を贈られた。
李厚 黒雲都の勇将
- 李厚は蔡州の人で、もと孫儒の残兵である。太祖は孫儒の兵数千を収め、甲を着せて皂衣をまとわせ、黒雲都と号した。厚は黒雲隊の隊長となり、驍勇で名を知られた。
- 朱延寿が寿州を知していた頃、厚は実際に兵の中にあった。汴の兵数万が城下に迫って危急となったとき、延寿の軍制では一旗が二十五騎で、厚に十旗を統べて攻撃させた。勝てなかったので斬ろうとしたが、厚は「衆寡敵せず。兵を増して再度向かい、それでも勝てねば死にます」と申し立て、都押牙の柴再用も助命を請うたので、五旗を増した。厚は決死の戦いを挑み、汴兵はついに崩れて敗走した。
- このとき厚の兵は千に満たなかったのに、汴の精兵数万を破ったので、淮南の人で驚き服さぬ者はなかった。官は楚州団練使に至った。
- 天祐十三年(916年)、光州の王言が乱を起こし、高祖は厚に討伐を命じて平定させ、そのまま厚に光州事を代行させた。久しくして卒した。
劉存(陳知新) 鄂州を取り楚に死す
- 劉存は泌陽の人。驍悍で兵をよく用いた。太祖に仕えて功を積み、舒州団練使に至った。
- 天復三年(903年)、李神福の副将として鄂州の杜洪を攻めたが落とせなかった。天祐元年(904年)、神福が広陵に帰り、存が代わって招討使となった。
- 翌年、兵を率いて鄂城の城下に迫り、城を焼いた。城中の兵が囲みを突いて出ると、諸将は急いで撃つよう請うたが、存は「撃てばまた城に入り、城はいっそう固くなる。去るに任せれば城は取れる」と言った。この日、城は破れ、杜洪を捕らえて広陵に送った。太祖は存を鄂岳観察使とした。
- まもなく西南面都招討使となり岳州を取り、勝ちに乗じて岳州刺史の陳知新とともに舟師を率いて楚を伐ったが、瀏陽で大敗し、存と知新はともに捕らえられた。
- 楚の武穆王(馬殷)はかねて二人の名を聞いており、助命しようとした。存と知新は大いに罵って「昔、宣城で私は刃を逃れた。今日の敗北は天が私を滅ぼすのだ。お前に仕えて命乞いなどするものか。私は楊氏に背く者ではない」と言った。武穆王は屈服させられぬと悟って殺した。岳州は再び楚のものとなった。
- 陳知新は当時、刺史から団練使となっており、官は光禄大夫・検校尚書左僕射・兼御史大夫を積み重ねていた。
- 存が舒州にいた頃、儒生の霍某を招いて団練判官としたが、後に讒言によって獄中で縊り殺した。存が湖南を征したとき、舒州の人が、霍生が司命の祠から出てきて掌を打って大笑し「私の無実がやっと晴れた」と言う夢を見た。当時、霍生の妻の兄である馬鄴が黄州刺史であったが、夜に斉安の門を叩く者があり「舒州の霍判官が軍前へ行くので、使君に馬を借りたい」と言った。城壁を守る者が報告すると、馬鄴は嘆じて「劉公は霍生を冤罪で殺した。今その人が行ったからには、禍がないはずがない」と言った。数日後、存は果たして敗れて死んだ。
史論
- 論に曰く。柴再用は身を持するに厚く、功があっても居らなかった。社稷の臣である。秦裴は力尽きて敵に降っても旧主を忘れず、ついに本国に帰り、江西に土地を開いた。その人品には嘉すべきものがある。二人の劉(劉金・劉存)と二人の李(李友・李厚)は当時ひとしく名将と称された。身を殺して仁を成し、義においてかりそめにも免れようとしなかった点で、劉存はとりわけ聖賢の道に適っている。
呂珂
- 呂珂は揚州の人。太祖に仕えて勇敢で知られ、戦功を重ねて黒雲都指揮使に抜擢された。卒すると子の師周がその職を継いだが、湖南へ出奔した。別に伝がある。
賈令威
- 賈令威は盱眙の人。果敢で勇名があった。太祖が廬州の官であった頃、兵を発して広陵に至ると、令威は劉金とともに部下を率いて途中から帰属し、麾下に属して親軍となった。太祖の兵はこれによって日ごとに盛んになった。
瞿章
- 瞿章は太祖に仕えて功を積み、先鋒指揮使に至った。乾寧の初め(894年)、黄州刺史を代行したが、汴将の朱友恭が兵を率いて攻めてきたので、城を捨てて武昌の寨に拠った。まもなく友恭に捕らえられ、黄州を失った。
賈公鐸
- 賈公鐸は上蔡の人。初め秦宗権に従っていたが、後に宗権に叛いて淮を渡り、旧知の馮敬章に出会って案内させ、蘄州を襲って破り、敬章を帥に推し、公鐸自身は牙将となった。城の堀を掘り兵を練って守りを固めた。
- 乾寧年間、朱延寿が突然城下に至って蘄州を囲んだ。折しも公鐸は狩りに出ていて帰れなかった。林中に伏兵を置き、勇士二人に羊の皮を着せて夜、延寿が奪った羊の群れに紛れ込ませ、ひそかに入城させて、夜半に門を開いて火を挙げて合図とする約束をさせ、また皮を着せて帰らせた。公鐸は期日どおり城の南門に至り、門の中で火が挙がると力戦して囲みを突き破って入った。延寿は「私はいつも彼らが囲みを破って出るのを恐れていたのに、逆に囲みを破って入ってきたのか。これでは城は急には落とせぬ」と言った。
- そこで太祖に申し出て、軍中で公鐸と旧知の者に誓書と金帛を持たせて説得させることを求めた。寿州団練使の柴再用が行くことを願い出、陣に臨んで語り合い、利害を説いたので、公鐸と敬章は降を請うた。太祖は敬章を左都押牙、公鐸を右監門衛将軍とした。
李濤
- 李濤は趙州の人。太祖の時に牙将に署された。
- 秦彦が太祖を攻めたとき、その軍勢は甚だ盛んであった。親校の李宗礼が「衆寡敵せず。塁を堅めて守り、ゆるゆると帰師を図るべきです」と言うと、濤は隊列の中にあって怒り、「我らは順をもって逆を討つのだ。衆寡を論じて何になる。大軍がここまで来て、去ってどこへ帰るのか。濤は部下を率いて前鋒となり、必ず公のために破ってみせます」と言った。太祖はその気概を壮とし、精兵を多く伏せて三重の伏兵を置いて待ち、ついに秦彦の軍を破って捕虜は数え切れなかった。これは李濤の一言の力である。
- 天祐十年(913年)、招討使として臨安で呉越を攻めたが、敗れて捕らえられた。順義元年(921年)に送り返され、右雄武統軍を授かって卒した。
袁禎
- 袁禎は陳州の人。初め太祖に従って銀槍都使となった。
- 太祖が蔡儔を破ったとき、張顥が帰順してきて禎の帳下に配属された。禎は顥が反覆常なき人物だとして誅して後患を断つよう請うたが、聞き入れられなかった。顥は後に果たして弑逆の罪で死に、当時の人はみな袁禎に先見の明があったと称えた。
丁袗
- 丁袗は字を徳祥といい、金壇の人。太祖が秦宗権を撃ったとき、袗は勇をもって募に応じ、功を論じて都押牙を授かった。従って孫儒を捕らえ、都知兵馬使に移った。
- やがて太祖が猜疑深く残忍になったので、袗は身の危うさを感じ、病と称して帰郷を願い出た。
- 袗は財を貪らず、酒を好まず、人の善を覆い隠さず、静かに身を守って淡々としていた。宋の乾徳の初め(963年)、九十一歳で終わった。
周隠
- 周隠は舒州の人。性は愚直なほど真っ直ぐで、仕える相手に忠実であったが、人情の機微を解さなかった。太祖の時、淮南節度判官であった。
- 太祖の病が篤くなり、烈祖(楊渥)を召すよう命じたとき、隠はまっすぐ進み出て「宣州司馬(楊渥)は軽率で讒言を信じ、球打ちと酒を好み、家を保つ主ではありません。他の子は皆幼く、諸将を御することができません。廬州刺史の劉威は王が微賤の頃から従っており、王に背かぬはず。しばらく軍府を統べさせ、諸子が成長したら渡すのがよいでしょう」と言った。太祖は答えなかった。
- 左右牙指揮の徐温と張顥が太祖に「王は平生、万死を出でて矢石を冒し、子孫のために基業を立てられました。どうして他人にそれを取らせられましょう」と言うと、太祖は「私は死んでも目を瞑れる」と言い、隠に命じて急ぎ長子の渥を召し寄せさせた。
- 烈祖が嗣立すると、隠を大いに罵って「君は人の国家を売った。どの面下げて楊氏にまみえるのか」と言い、これを殺した。これによって将佐は皆、身の安全を感じられなくなった。
史論
- 論に曰く。呂珂・賈令威・瞿章・賈公鐸・李濤らはいずれも興陵(太祖)に従軍した傑物である。袁禎は主を弑する者の姦を見抜き、丁袗は身を保つ知恵に長けた。機微を知ることの神妙といえよう。周隠は謀が善からず、直言が禍を招いた。惜しむべきことである。