十国春秋十國春秋卷五 吳五 列傳(袁襲・高勗・戴友規・李神福ほか)

袁襲 太祖の謀主

  • 袁襲は廬江の人。太祖(楊行密)が廬州刺史であったとき、策を献じて従軍し、事の見通しはよく的中した。
  • 畢師鐸が広陵を攻めたとき、呂用之は高駢の牒を偽造して太祖を行軍司馬に署し、兵を徴して救援させようとした。袁襲は太祖に「高公は昏迷し、呂用之は姦邪、畢師鐸は悖逆。凶徳の者が揃ったうえで我らに兵を求めてきた。これは天が淮南を明公に授けたのです」と説いた。太祖は廬州の兵を率いて赴き、ちょうど師鐸が高駢を殺したので、太祖は揚州に入って拠った。
  • 孫儒の乱が再び激しくなったとき、太祖は空城に籠って内心怯えていた。袁襲は「新たに集めた衆で孤城を守り、諸将の多くは高氏の旧臣で、厚恩や信頼で心服させたわけではない。今、孫儒の兵は盛んで攻めれば必ず落とすでしょう。まさに諸将が両天秤にかけ、強弱を見て去就を選ぶ時期です」と言った。
  • 海陵鎮使の高霸は高駢の旧将で、必ず我が用にはならぬとして、袁襲は軍令で高霸を召すよう勧めた。高霸は部下を率いて来た。太祖は天長に駐屯させて孫儒を防がせようとしたが、襲は「霸はつねに両天秤で、我が勝てば来て、負ければ叛く。今、天長に置けば、自ら帰路を断つようなものです。しかも孫儒に勝てるなら霸は不要、不幸にして勝てなければ天長など我がものではありません。公が霸を疑って召した以上、もう用いられましょうか。殺してその兵を併せるにしくはありません」と言った。太祖は伏兵を置いて霸を誅し、その兵数千を得た。
  • 襲はさらに「広陵の飢えと疲弊は甚だしく、蔡の賊(孫儒)がまた来れば民は重ねて苦しむ。避けるのが得策です」と述べた。太祖は延陵の宗蔡儔に兵を分けて駐屯させるにとどめ、自身は揚州に留まって動かなかった。
  • 翌年、孫儒は果たして揚州を攻めて外郭を落とし、太祖は慌てて逃れ、海陵へ奔ろうとした。襲は「海陵は守りにくい。廬州は我らの旧治で、城も倉も充実しており、後図を策せます」と言い、太祖は廬州へ走った。
  • しばらく行き先が定まらず、太祖が「甲を巻いて強行軍で西の洪州を取りたいがどうか」と問うと、襲は「鍾伝が江西を定めて久しく、兵は強く食糧も足りて、まだ図れません。趙鍠は宣州を得たばかりで、乱に乗じて残虐であり、衆心は服していません。公は言葉を低くし礼物を厚くして和州の孫端、上元の張雄を説き、采石から渡って趙鍠の境を侵させれば、彼は必ず迎え撃ちに出ます。公は銅官から江を渡って合流すれば、鍠を取るのは確実です」と答えた。
  • 太祖は大いに喜び、諸将を率いて鍠を攻めた。孫端・張雄が先に鍠に敗れ、鍠の将の蘇塘・漆朗が二万を率いて曷山に屯した。襲は「公は急ぎ曷山へ進み、塁を堅くして守れば、彼は戦いを求めても得られず、我が方が本当に怯えていると思うでしょう。その油断に乗じれば破れます」と言い、太祖はその言を用いて蘇塘らを大敗させ、趙鍠を捕らえて宣州に入った。
  • その後、朱全忠が趙鍠と旧交があるとして使者を送り鍠の引き渡しを求めた。太祖が襲に諮ると、襲は「首を斬って送り、後患を断つにしくはありません」と答え、鍠は殺された。
  • まもなく袁襲が卒すると、太祖は哭して「天は私に大功を成させたくないのか。なぜ私の股肱をもぎ取るのか。私は寛大を好むが、襲はいつも殺すことを勧めた。それが長寿を得られなかった理由か」と言った。

高勗 民政の献策

  • 高勗は舒城の人。太祖が淮南で挙兵したとき招かれて掌書記となった。
  • 当時、軍事が繁多で経費が足りず、太祖は茶と塩で民の布帛と交換しようとした。勗は諫めて「戦火の後で十軒のうち九軒は空になっています。そのうえ利を貪って民を困らせれば、また離叛するでしょう。我が方にあるものをすべて隣道にないものと交換すれば軍を養うに足ります。賢明な守令を選んで農桑を勧めれば、数年で倉庫は自ずと満ちます」と述べた。太祖はもっともだとしてすべて従った。
  • 田頵はこれを聞いて「仁者の言はその利が広い。まさに高勗のことだ」と言った。

戴友規 孫儒撃破の策

  • 戴友規は廬州の人。太祖の幕中にあって賓客となった。
  • 太祖が宣州に鎮していたとき、孫儒と戦って利あらず、退こうとして諸将を集めて策を諮った。友規は「孫儒は来たばかりで気鋭く兵も多い。その鋒先は当たれませんが、衆の意気を挫くことはできます。正面から敵しては勝てませんが、長引かせて疲弊させることはできます。避けて走れば捕らえられるだけです。淮南の士民で公に従って江を渡った者や、孫儒の軍から降ってきた者は非常に多い。公は将を遣わしてまず彼らを護送して淮南へ帰し、生業に復させなさい。孫儒の軍は淮南が平穏だと聞けば皆帰りたくなる。人心が動揺すれば敗れぬはずがありません」と述べた。太祖はその計に従い、孫儒の兵を大破した。

史論

  • 論に曰く。袁襲は帷幄で謀をめぐらし、挙げる策に外れがなかった。張良・陳平に次ぐ人物であろう。厳をもって寛を補ったのはやむを得ぬことで、時勢がそうさせたのである。高勗は農桑を務めることを志し、仁者の言葉はまことに和やかである。戴友規は幾度も決策を述べ、ひとり物事の本源を探った。謀臣のなかでも傑出した者と言えよう。

李神福 呉の名将

  • 李神福は洺州の人。上党の軍籍に属していた。唐の高駢が諸道行営都統を兼ねたとき、神福は州将に従って淮海に戍り、そのまま太祖に身を投じて親校となり、従って廬州に至った。
  • 群盗が舒州を激しく攻めたとき、神福は旗幟を多く携えて間道から舒州に入ることを請うた。しばらくして舒州の兵が廬州の旗を掲げて出、地形を指し示して大陣を布くような素振りを見せると、賊は恐れて皆囲みを解いて去った。功を積んで都指揮使に至った。
  • 大順年間(890-891年)、孫儒が淮蔡の兵をあげて江を渡り、溧水まで来た。太祖は神福に拒ませた。神福は偽って退いて弱みを見せ、孫儒の軍は我が方が本当に怯えていると思って備えを設けなかった。神福は精兵を率いて夜襲し、捕虜と斬首は千を数えた。ついで和州・滁州を攻め、康暀を降し、安景思を敗走させた。神福の功が最も多かった。
  • 景福の初め(892年)、孫儒の兵が再び盛んになり、兵を率いて宣州に迫った。太祖が諸将に「孫儒の衆は我が十倍だ。銅官へ退いて守りたいがどうか」と問うと、神福は劉威とともに「孫儒は総力を挙げて遠来しており、速戦が有利です。険要に拠って塁を堅め野を清め、その軍を老いさせ、時折軽騎を出して糧道を襲い、掠奪品を奪えば、敵は前に戦えず退いても糧がなく、坐したまま捕らえられます」と答えた。
  • まもなく蔡儔の乱が起こり、神福は儔を討って功があり、舒州刺史に移った。さらに臨安で戦って浙将の顧全武を捕らえた。臨安を攻めるとき、急には落とせず、彭城王銭鏐に帰路を断たれることを恐れ、人を遣わして銭鏐の先祖の墓を守らせて銭鏐に取り入り、あわせて旗鼓を多く並べて空の陣を作り敵の心を惑わせ、ついに和議を受けて帰還した。昇州刺史に転じた。
  • まもなく鄂岳行営招討使となり、杜洪を攻めて鄂州城下に軍を進めた。神福は城中に葦が山積みになっているのを望み、監軍の尹建峰を顧みて「今夜、公のために焼いてみせよう」と言った。建峰は生返事で信じなかった。当時、杜洪はちょうど梁王朱全忠に救援を求めていた。神福は部将の秦皋を灄口へ遣わし、木の梢に松明を掲げさせた。杜洪は汴の兵が到着したと思い、葦を焼いて合図に応えた。神福の機略はこうしたものが多かった。
  • しばらくして荊南の成汭、および馬殷・雷彦威の兵が次々に杜洪の救援に来た。神福はこれを聞くと軽舟で偵察し、諸将に「敵の戦艦は多いが互いに連携していない。急襲すれば成汭を捕らえられる」と言った。翌日、君山で迎え撃って大破し、風に乗じて火を放つと成汭は水に飛び込んで死に、諸軍はみな引き上げた。この戦役で杜洪こそ滅ぼせなかったが、諸鎮は気を奪われ、我が軍の名声は大いに振るった。
  • 田頵が宣州で叛くと、太祖はひそかに神福を召して討たせた。神福は杜洪に前を遮られることを恐れ、命を受けて荊南を攻めると公言して兵を整え舟を用意し、日暮れになって江を東へ下り、そこで初めて将士に田頵討伐の命を告げた。
  • 神福の妻子はもともと金陵にいた。田頵は昇州を襲って破り、妻子を捕らえて神福を誘い、使者に「公が機を見て私に付けば、地を分けて王とする。さもなくば妻子は一人も残らぬ」と言わせた。神福は「私は一兵卒から呉王の挙事に従い、今は上将である。義において妻子と志を引き換えにはできぬ。頵には老母がありながら顧みずに叛いた。三綱すら知らぬ者と何を語ろう」と言い、その使者を斬って絶縁を示した。軍士はこれを聞いて皆奮い立った。
  • 田頵は将の王壇・汪建に水師を率いて迎え撃たせた。吉陽磯に至ったとき、壇と建は神福の子の承鼎を引き出して見せた。神福は左右に叱して我が子を射させ、そのうえで諸将に「敵は多く我は寡ない。奇策で勝つべきだ」と語った。日暮れに合戦すると、神福は偽って敗れ、舟を遡らせて上流へ引いた。壇・建が追うと、神福は引き返して流れに乗って下流から撃った。当時、壇・建の楼船は松明を大々的に並べていたので、神福は軍中に「火を見たら攻めよ」と命じた。壇・建の軍は火を消して身を隠したが、旗が入り混じるなか、我が兵は風に乗って火を放ち艦を焼き、壇・建は大敗して士卒の死者は甚だ多かった。
  • 田頵は壇らの敗北を聞いて自ら水軍を率いて戦いに来た。神福は「賊が城を捨てて出てきた。これは天が滅ぼすのだ」と言い、江に臨んで塁を堅くして戦わず、使者を太祖に遣わして歩兵を出し敵の帰路を断つよう請うた。太祖は別に臺濛を遣わして田頵を撃たせ、頵は敗れて死んだ。
  • ただちに神福を寧国軍節度使に任じたが、神福は江西がまだ平定されていないとして固辞して拝命しなかった。翌年また招討使となって鄂州を攻めたが落とせず、病を発して広陵に帰り、まもなく卒した。
  • 先に田頵がひそかに異心を抱いていたとき、神福はしばしば太祖に「頵は必ず叛く。早く手を打つべきです」と述べた。太祖は「頵には大功があり、叛状もまだ露見していない。殺せば皆が身を危うくする」と答えた。後に果たしてその言のとおりになり、人々は神福に先見の明があったとした。

張訓 「大口張」

  • 張訓は先祖が広陵の人。祖父の張昇は唐末に清流令となり、卒して滁に葬られたので、そのまま清流の人となった。訓は勇悍で胆略に富み、当時の人は「大口張」と呼んだ。
  • 太祖が合肥に拠ると訓は会いに行き、太祖は大いに喜んで親兵を授けた。ついで黄頭都虞侯に移り、舒州の賊呉迥らを撃って名を知られた。
  • 揚州の戦役では、訓はひそかに城内に入って残り火を消し止め、穀数十万斛を得て飢民を賑わした。
  • 翌年、甘露鎮使の陳可言を撃ち殺し、常州を破った。ついで安吉に駐屯して孫儒の糧道を断ち、功によって常州刺史となった。
  • 乾寧の初め(894年)、漣水に駐屯して北の軍に備えた。当時、汴の将龐師古が清河口に屯していたが、訓は舟師を率いて戦い、師古を斬った。汴軍は動揺し、訓は淮海都遊奕使に移った。
  • 海州の戍将陳漢賓が降を請うたが、訓は漢賓の腹の内が測りがたいと見て、麾下の王綰らとともに兵を率いてまっすぐその城へ向かった。漢賓は慌てて出迎え、訓はその塁に入って高座に着いた。漢賓が音楽を奏して大宴を張り、酒がたけなわになると、訓は突然剣を抜いて叱し、「我が兵はすでに配してある。帰りたければすぐ帰れ。後悔するな」と言った。漢賓は唯々として甲を解き、命に従った。尚書左僕射・抜山都指揮使に転じた。
  • 天復の初め(901年)、唐の昭宗が李儼を間道から遣わして太祖を呉王に封じ、制を承けて封拝する権を得た。訓は功によって司徒に抜擢された。
  • まもなく王茂章が密州を破り、訓が密州刺史となった。ところが茂章が汴兵に追われて兵を解いて去ると、諸将は城を焼いて大いに掠奪して帰ろうと請うた。訓は許さず、府庫を封じ、城上に旗を立て、弱兵を前に置き、自ら精兵で殿軍を務めた。まもなく汴将の王檀が攻めてきたが、遠くから旗幟を見て近づけず、数日たってようやく城に入り、それ以上追わなかった。訓はこうして全軍を無事に帰した。
  • 太祖が薨じると訓は病と称して辞し、さらに黄州刺史に移されたが、そこで卒した。太傅・清河郡公を贈られた。
  • 孫の張原泌は南唐の保大年間に進士に及第し、官は戸部侍郎・知制誥に至り、宋に帰属して大理寺卿を歴任した。

陶雅 歙州を二十年治める

  • 陶雅は合肥の人で、もともと太祖と同郷である。太祖に将として用いられ、舒州の賊呉迥・李本らを討ち平らげ、舒州刺史を代行するよう命ぜられたが、まもなく許勍に襲われて廬州へ逃げ帰った。
  • その後、九華で趙乾之を撃って破り、池州制置使を授かり、団練使に改められた。雅は池州を治めて恵み深い政を行い、寛厚で民の心を得た。
  • 景福の初め(892年)、田頵が歙州を攻めたが長く落ちなかった。歙州の人々は互いに支え合って城下で「陶雅を刺史にしてくれるなら命に従う」と言った。太祖はただちに雅を歙州刺史に任じ、歙州の人は受け入れた。雅は礼を尽くして前の刺史裴樞に会い、朝廷へ送り返した。
  • 久しくして検校司空・潯陽公を加えられ、高祖の時に観察使に移った。李遇が徐温と折り合わずに誅されると、雅は恐れて劉威とともに広陵へ赴いて腹心を打ち明けた。温は手厚くねぎらって歙州へ帰し、都団練使を重ねて加えた。雅は歙州を治めること二十年、そこで卒した。
  • 子の敬昭は兵を率いて饒州・信州を襲って功があり、官は(欠字)に至った。
  • 陶雅は物静かで口数が少なく、兵をよく用いた。天祐年間、西南招討使として睦州の陳詢を援けたとき、ある夜、軍中が夜襲の噂で騒ぎ、士卒の多くが塁を越えて逃げた。裨将の韓球が駆けつけて報せたが、雅は安らかに臥したまま動かず、しばらくして自然に鎮まり、逃げた者も皆戻った。まもなく浙兵を大敗させて王球・銭鎰を捕らえて帰り、世はその臨機応変の才に服した。

劉威 洪州を守り抜く

  • 劉威は慎県の人。太祖に仕えて牙将となり、武進の戦役では安仁義らとともに劉建鋒を破って顕著な功があった。
  • その後、孫儒がしばしば太祖に勝ち、太祖は銅官へ退いて守ろうとした。威は「賊は強行軍で遠来している。城を背にして柵を堅くすれば、戦わずして疲れさせられます」と述べ、太祖はもっともだとした。久しくして孫儒の兵は飢えたうえ大疫に見舞われ、儒はついに我が方に捕らえられた。死ぬ間際、儒は仰いで劉威を見て「公がこの策を立てて私を破ったと聞いた。私に公のような将がいたら、負けただろうか」と言った。
  • まもなく廬州刺史を授かり、後に観察使に移った。当時、四方に砦が並び、町は寂れていたが、威は内に百姓を撫で外に敵兵を防ぎ、廬州は安寧を得た。
  • 太祖が病に臥したとき、判官の周隠は「威は微賤の頃から従っており、必ず背きません。しばらく軍府を統べさせて事を執らせるのがよい」と言ったが、太祖は結局徐温の意見を用い、威は召されずに終わった。
  • まもなく鎮南軍節度使に抜擢された。撫州の危全諷が十万の兵で洪州を攻めてきたとき、守兵はわずか千人で、将吏はこれを聞いて多くが顔色を失った。威はひそかに広陵へ使者を送って急を告げる一方、毎日僚佐を集めて音楽を奏させ酒宴を開き、悠然として傍らに人なきがごとくであった。全諷は疑って進めず、周本が高安を救いに来て全諷が捕らえられ、洪州が保たれたのは、実に威の力である。
  • 天祐九年(912年)、徐温が李遇の一族を誅し、つねに劉威を内心忌んで兵を興して討とうとした。威は幕客の黄訥の進言を用い、陶雅とともに軽舟で広陵に赴いて二心なきことを明らかにした。温は太祖に仕えるのと同じ礼で遇し、官爵を厚く加えて任地へ帰した。数年後に卒した。
  • 威が廬州から江西へ移鎮したとき、任を離れた後に廬州で大火があった。しばしば火を持って夜歩く者が見え、射殺してみると、いずれも棺の板や腐った木、壊れた箒の類であった。数か月して張崇が刺史に任ぜられると火災は止んだ。
  • 子の崇景は袁州刺史となったが、叛いて楚に付き、柴再用に破られて袁州を捨てて逃げた。

臺濛 田頵を討つ

  • 臺濛は字を頂雲といい、合肥の人。前趙の特進臺彦皋の後裔だともいう。初めから太祖に従って廬州に起ち、広陵を落とし、驍勇で戦上手であった。功を積んで泗州防禦使に至った。
  • 龍紀の初め(889年)、董昌が乱を起こし、唐は鎮海節度使銭鏐に討たせた。董昌が太祖に救援を求めると、太祖は臺濛を遣わして蘇州を攻めさせ、銭鏐の軍を牽制した。久しくして漣水制置使に移った。
  • 田頵の変が起こると、太祖は李神福に檄して鄂州から東下させ、別に臺濛に兵を率いて呼応させた。田頵は濛が来ると聞いて自ら歩騎を率いて迎え撃ち、将の郭行悰に精兵二万と、王壇・汪建の水軍を残して蕪湖に屯させ、神福を拒ませた。
  • 斥候が「濛の兵の営寨は小さく、せいぜい二千人しか収容できない」と報告したので、頵は侮って外の兵を呼び戻さなかった。濛は頵の境に入ると陣を交替させながら進み、営塁もすべて規定どおりに設けた。軍中には臆病だと笑う者もいたが、濛は「頵は老練な将だ。軽んじてはならぬ。備えを怠れない」と言った。
  • まもなく広徳で頵と遭遇した。濛は頵の麾下が皆かつての太祖の部曲であることから計略で取れると考え、太祖の書状を偽って出し、頵の将たちに広く配った。頵の将は果たして馬を下りて拝受し、濛はその挫けた隙に兵を放って撃ち、頵の兵は敗走した。
  • ついで黄池で戦い、濛は先に三重の伏兵を置いて待ち、交戦すると偽って逃げた。頵は本当に怯えたと思って追い、伏兵が起こって大敗し、慌てて宣州に帰って城を守った。濛はそのまま兵を進めて囲んだ。頵は蕪湖の兵を急ぎ呼び戻したが、城に入れなかった。
  • 数日後、頵は憤りに堪えず、決死の士数百を率いて出撃した。濛はまた偽って退いて弱みを見せ、頵の兵が濠を越えて戦うと、濛はすかさず撃った。頵は橋へ逃げ戻ったが、馬が落ちて躓き、濛はそこで頵の首を斬った。頵の衆は大潰し、宣州を落とした。
  • この戦役で濛は弱を装って強となり、退いて進むという、兵家の虚実の秘訣を深く体得していた。兵法を語る者の多くがこれを手本とした。功により検校太保・宣州観察使を授けられ、天祐元年(904年)八月、任地で卒した。
  • 先に濛が泗州にいた頃、太祖が淮を舟で下って濛のもとに立ち寄った。濛は供応の帳や設えを豪華にしたので、太祖はたいそう不機嫌であった。出発した後、濛は寝室で繕いのあたった衣を見つけ、急使を立てて返した。太祖は笑って「私は若い頃貧賤だった。本を忘れられぬのだ」と言った。濛は大いに恥じ、これ以来、衣食を控えめにした。

李遇 徐温に誅される

  • 李遇は(欠字)の人。太祖に従って挙兵し、功を重ねて常州刺史を授かった。
  • 安仁義が叛いて東塘を焼き常州を襲ったとき、遇は出撃し、仁義を望んで大いに罵った。仁義は「遇があえて私をここまで辱めるのは、伏兵があるに違いない」と言って引き上げた。その後、宣州観察使に移った。
  • 高祖が王位を嗣ぎ徐温が政を執ると、遇は内心不満で、つねに「徐温とは何者だ。私は面識すらない。それが一朝にして国を執るのか」と言っていた。
  • 館駅使の徐玠が呉越へ使いする途中、宣州を通った。温は玠に、遇を説いて新王に謁見させるよう命じた。遇は初め承諾したが、玠が「公がそうなさらねば、世間は公が叛いたと言うでしょう」と言うと、遇は色を変えて「君は私が叛くと言うが、侍中(徐温)を殺した者こそ叛ではないのか」と言った。「侍中」とは景皇(烈祖楊渥)を指す言い回しである。
  • 温はこれを聞いて大いに怒り、ただちに王壇を宣州制置使に署し、遇が入朝しない罪を数え上げ、別に柴再用に昇・潤・池・歙の兵を率いさせて王壇を送り込ませた。遇は交替に応ぜず、再用は一か月余り囲んだが落とせなかった。
  • 温は典客の何蕘を遣わして遇に自ら帰服するよう諭させた。蕘は王命を伝えて「公の本心が本当に叛くつもりなら、私を斬って晒しなさい。もし叛意がないなら、なぜ私に従って款を通じないのですか」と説いた。
  • ときに遇の末子は広陵の牙将で、遇はこの子をたいへん愛していた。温がその子を引き出して宣州城下で見せ、子が泣き叫んで命乞いをすると、遇は戦うに忍びず、蕘に従って城を出た。柴再用は出迎えてこれを斬り、一族にも及んだ。
  • 遇の死以後、諸将の多くは温の威を恐れ、高祖はただ位に就いているだけになった。
  • 先に、遇の部将朱従本の家では厩で猿を数頭飼っていた。ある夜、馬丁が、驢馬のような黒く毛深い、手足はすべて人のような物が地に伏して猿をほとんど食い尽くしているのを見た。まもなく遇の一族は誅された。宣州の古老は「郡中には昔からこの怪物がおり、軍府に変事があるときに現れる。現れると悪臭がする。田頵が敗れようとする頃、夜回りの者が街で見かけたが近づけず、一か月ほどで禍が及んだ」と語った。

李簡 太祖を重囲から救う

  • 李簡は上蔡の人。太祖に仕えて親将となった。孫儒が広陵に屯したとき、太祖は兵を出して拒いだが孫儒に苦しめられ、あわや脱出できぬところであった。簡は決死の士百人を率いて重囲から太祖を救い出し、功があった。後に官を歴て常州刺史に至った。
  • 高祖の時、簡は李遇らとともに徐温に大いに不満を抱いていたが、遇が誅されると、簡は武昌軍節度使に任ぜられた。武義元年(919年)、鎮西大将軍・兼侍中を加えられた。
  • 太和元年(929年)、病により江都への帰還を求め、途中、采石で卒した。
  • 徐知詢は簡の婿であったので、簡の親兵二千を勝手に金陵に留め、表を上げて簡の子の彦忠に父に代わって鄂州を鎮させるよう薦めた。当時、徐知誥が輔政しており、これを許さなかった。知詢は大いに怒って「劉崇俊は兄の縁者で三代にわたって濠州を領している。彦忠は私の妻の一族だ。武昌だけは駄目だというのか」と言い、これによって次第に知誥と対立するようになった。

史論

  • 論に曰く。李神福は戦えば勝たぬことがなく、義において私を忘れた。ただ勇と略で勝ったのではない。張訓は兵を用いるに決断をもってし、陶雅は民を集めるに寛をもってし、劉威は静をもって動を待ち、臺濛は柔をもって強を制した。古の名将に何ら劣るところがない。李遇は一言の失言から禍の機を発し、李簡は内に憤りを抱きながら天寿を全うできた。これもまた幸不幸があるということであろう。