十国春秋卷四 列傳 臨川王濛
生涯
- 臨川王濛は太祖の第三子である。
- 武義元年(919年)、廬江郡公に封ぜられた。当時、徐温が政を執っており、濛は内心これに不満で、常に胸を撫でて嘆き、「わが国家はついに他人の所有するところとなるのか」と言った。
- 温はこれを聞いて濛を憎み、その冬、濛を出して楚州団練使とし、翌年舒州に移した。
- 高祖が世を去るに及び、濛は序列からして当然その位を嗣ぐべきであったが、温は年長の君主を立てることを望まず、また濛を忌んで、そこで睿帝を奉じて呉王の位を嗣がせた。
- まもなく睿帝が尊号を称すると、濛を進めて常山王とし、翌年臨川に改封し、累って昭武軍節度使・兼中書令を加えた。
- やがて斉王徐知誥が禅譲を受けようと謀るに及び、人を遣わして濛が亡命者を匿い、ほしいままに兵器を造っていると告げさせ、その罪を作り上げて歴陽郡公に降格し、守衛軍使の王宏に兵二百を率いさせて和州に幽閉した。
- 二年ほど経って、濛は国がまさに滅びようとしていることを知り、ついに壁を破って宏を殺した。宏の子は兵を率いて濛を攻めたが、濛はこれを射殺し、二騎を率いて廬州の徳勝節度使周本のもとに赴いて策を図ったが、本の子の弘祚に捕らえられ、まもなく采石で殺害された。
- 追って廃されて悖逆庶人とされた。濛の妻子は和州にあって、ことごとく侍衛軍使の郭悰に殺された。
- 南唐の昇元元年(937年)、追封されて臨川王とされ、諡は靈といい、礼をもって改葬された。
史論
評して言う。ことわざに「芳しい蘭が戸口に当たって生えれば、鋤かれずにはいられない」というが、それはまさに濛のことを言うのであろうか。ひとたび奮起して死んだが、国家が滅亡するに至ったその原因は、生を貪った江夏王ら諸王よりもはるかに優れていた。