十国春秋十國春秋卷四 吳四 列傳(后妃・宗室)

太祖太妃 史氏

  • 太妃史氏は家系代々斉魯の人。一説に雁門の人で、史建瑭の族の叔母だという。
  • 唐の僖宗の頃、太祖(楊行密)が後宮に入れ、烈祖(楊渥)と高祖(楊隆演)を生んだ。のち武昌郡君に封ぜられた。
  • 烈祖が王位を嗣ぐと尊んで太夫人とした。
  • 紀祥の変(烈祖弑逆)が起こると、厳可求が太夫人の教(命令書)に仮託して「諸将は楊氏に背いてはならぬ」と諭し、これによって高祖が立つことができた。
  • まもなく徐温が張顥の弑君の罪を暴き、西宮に参上して事の次第を申し上げた。太夫人は恐れて涙ながらに「我が子は幼く、これほどの禍難に遭っています。一族百口の命を保って廬州へ帰らせてくださるのが、公の恵みです」と言った。温は「顥の弑逆は誅さぬわけにはいきません。太夫人はご安心を」と答えた。
  • 武義元年(919年)に太妃と尊ばれ、まもなく薨じた。

夫人 朱氏

  • 夫人朱氏は奉国節度使朱延寿の姉である。
  • 若い頃から利発さを買われて太祖に侍したが、延寿が誅されたとき、あわせて追い出された。

太后 王氏

  • 太后王氏は睿帝(楊溥)の生母である。
  • 武義二年(920年)六月、睿帝が王位に即くと太妃と尊ばれ、まもなく帝を称すると皇太后と尊ばれた。
  • 乾貞二年(928年)八月に殂した。

譲皇后 王氏

  • 譲皇后王氏は、初め睿帝に仕えて徳妃となった。
  • 太和五年(933年)九月、皇后に冊立された。
  • 南唐が禅を受け、睿帝が丹楊宮で殂した後の消息は伝わらない。

太祖の子 臨川王 楊濛

  • 臨川王楊濛は太祖の第三子である。
  • 武義元年(919年)に廬江郡公に封ぜられた。当時は徐温が政を執っており、濛は内心不満で、つねに胸を撫でて「我が国家はついに他人のものになるのか」と嘆いていた。温はこれを聞いて憎み、その冬、楚州団練使として外に出し、翌年舒州に移した。
  • 高祖が世を去ると、順序からは濛が立つべきであったが、温は年長の君主を望まず、しかも濛を忌んでいたため、睿帝を奉じて呉王の位を嗣がせた。
  • まもなく睿帝が尊号を称すると、濛は常山王に進められ、翌年臨川王に改封され、昭武軍節度使・兼中書令を重ねて加えられた。
  • やがて斉王徐知誥が禅譲を受けようと謀り、人を遣わして「濛が亡命者を匿い、勝手に兵器を造っている」と告発させて罪を構え、歴陽郡公に降格して、守衛軍使の王宏に兵二百を率いさせ和州に幽閉させた。
  • 二年後、濛は国が滅びようとしているのを知り、壁を破って王宏を殺した。宏の子が兵を率いて濛を攻めたが、濛は射殺し、二騎を連れて廬州の徳勝節度使周本のもとへ赴き、策を献じた。しかし周本の子の弘祚に捕らえられ、采石で殺され、悖逆庶人に追廃された。和州にいた濛の妻子はことごとく侍衛軍使の郭悰に殺された。
  • 南唐の昇元元年(937年)、臨川王に追封され、諡を霊とし、礼をもって改葬された。

太祖の子 新安公 楊潯

  • 新安公楊潯は太祖の第五子である。高祖が呉国を開いたとき郡公に封ぜられ、まもなく卒した。

太祖の子 徳化王 楊澈

  • 徳化王楊澈は太祖の第六子である。
  • 武義元年(919年)に鄱陽郡公に封ぜられ、睿帝が皇帝の位に即くと平原王に封ぜられ、後に徳化王に改封された。その後の消息は伝わらない。

史論

  • 論に曰く。諺に「芳しい蘭も戸口に生えていれば鋤かずにはいられない」という。まさに楊濛のことであろう。一たび奮起して死に、国家は失われたが、その死に方は江夏王ら生に執着した諸王よりはるかに勝っている。

高祖の子 南陽王 楊玢

  • 南陽王楊玢は高祖の子である。初名は継明。武義年間に廬陵郡公に封ぜられ、後に今の名に改めた。
  • 乾貞元年(927年)に南陽王に封ぜられ、南唐の禅代の際に公に降格された。

睿帝の子 太子 楊璉

  • 太子楊璉は睿帝の長子である。乾貞二年(928年)に江都王に封ぜられ、太和の初めに皇太子に立てられた。天祚年間に斉王徐知誥の娘を妃に迎えた。
  • 南唐が禅を受けると弘農郡公に降封され、平盧軍節度使・兼中書令を領し、後に康化軍節度使に改められた。
  • 昇元四年(940年)、璉は平陵(睿帝の陵)に詣でた帰り、竹篠口で舟を繋いで大いに酔い、一夜のうちに急死した。左右の者が唐主の内意を承けて実際は毒殺したのだ、という説もある。弘農王に追封され、諡を靖とした。

睿帝の子 江夏王 楊璘

  • 江夏王楊璘は睿帝の第二子である。乾貞の初め、宜春王・南陽王らとともに封ぜられ、重ねて太尉を加えられた。
  • 禅代のとき璽綬を斉に奉った。南唐主は官を進め邑を増したが、封は郡公に降した。

睿帝の子 宜春王 楊璆

  • 宜春王楊璆は睿帝の第三子である。乾貞の初めに宜春王に封ぜられた。その後の消息は伝わらない。

睿帝の甥 建安王 楊珙

  • 建安王楊珙は睿帝の兄の子である。初め南昌郡公に封ぜられ、乾貞元年(927年)に王に進封された。
  • 南唐が禅を受けると、珙ら十二人は公に降格された。珙は康化軍節度使・兼中書令を領したが、まもなく病と称して官を辞し、永寧宮に帰って生涯を終えた。

睿帝の甥 宜陽王 楊璪

  • 宜陽王楊璪も睿帝の甥である。天祚元年(935年)、冊宝を携えて徐知誥を斉王に冊立した。南唐の禅代の際、郡公に降封された。

太子妃 李氏

  • 太子妃李氏は斉王徐知誥の第四女である。賢明で温和淑やか、容姿は世に並ぶものがなかった。天祚年間に皇太子楊璉の妃に冊立された。
  • 南唐が禅を受けると、宋斉丘はこの婚姻を解消するよう請うたが、唐の先主(李昪)は許さず、永興公主に封じた。
  • 妃は自分を呉家の嫡嫁と考えており、国が亡んだことを内心憤り悲しんで、人が「公主」と呼ぶたびに悲しんで涙を流したので、左右の者も痛ましく思った。兄たちの多くはこれを嫌ったが、唐の先主は「夫の家を内とし父の家を外とするのは婦人の徳である。何の罪があろう」と言った。
  • のち太子璉に従って池州に赴き、璉が薨じると金陵の宮に戻り、生涯白い喪服を通し、化粧や装飾を退け、葷食も肉食もせず、自ら「未亡人」と称した。香を焚いて仏に向かい、「願わくは我が身、生生世世、情ある物に生まれませんように」と誓った。
  • 二十四歳のとき、病もなく坐したまま亡くなった。剪のような光が長さ一丈余、口から出て、五夜続いてようやく消えた。納棺のときも体は温かく柔らかで生けるがごとくであった。唐の先主は深く悼み、李建勲に詔して碑を刻ませ、宮中でその異事を記させたという。

史論

  • 論に曰く。婦人が夫の家を内とするのは義の正しいあり方である。史に、妃は「公主」と呼ばれるたびに必ず涙を流してその称を辞したとある。その志操は、漢の黄皇室主(王莽の娘、平帝の后)と何ら変わるところがない。まことに哀れむべきである。

睿帝の女 上饒公主

  • 上饒公主は睿帝の愛娘である。太和の末に左僕射の徐景遷に降嫁した。
  • 景遷が死ぬと公主も後を追うように亡くなった。南唐の禅代の後、景遷は高平郡王に追封され、公主は燕国君に封ぜられ、諡を貞荘とした。