貞觀政要儒学を尊ぶ(崇儒學第二十七)
弘文館の設置と儒学の振興
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太宗は即位当初、正殿の左に弘文館を置き、天下の文儒(虞世南・褚亮・姚思廉・欧陽詢ら)を精選して学士とし、朝政の合間に古今の典籍・政事を討論させた。功臣・勲貴三品以上の子孫にも弘文館学生の資格を与えた。
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(真徳秀の評より)戦攻いまだ息まぬ時期から経術に心を留めた太宗の好学を、三代以下に例のないことと称える。
編者按(戈直)
- 太宗の好学を高く評価しつつ、瀛洲・弘文館の諸賢が講じたものが果たして堯舜禹湯文武孔顔の真の学(允執厥中・危微精一・忠恕一貫)に及んでいたかは疑わしいとし、「学びはしても学ぶべきものを学んでいない」のではないかと厳しく問いかける。
貞観二年:孔子廟の建立と国学の拡充
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太宗は詔して周公を先聖の座から外し、孔子を先聖、顔回を先師として国学に廟堂を建てた。天下の儒士を集め登用し、国子学・太学など七学(国子・太学・広文・四門・律・書・算)の学舎を拡充し、四方から千を数える儒士が集まり、吐蕃・高昌・高麗・新羅の酋長も子弟を入学させ、儒学の隆盛は古今未曾有であったという(貞観十四年にはさらに規模を拡大し、学生三千二百人、諸国の入学者八千余人に及んだと記す)。
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(范祖禹の評より)古の郷里の学が廃れた後世にあって、太宗が儒学を興し人材を育てた功績は貞観・開元の盛時に顕著であると評す。
編者按(戈直)
- 韓愈「原道」の道統論(堯舜禹湯文武周公孔子と伝わった道)を引き、太宗が孔子を先聖として国学に祀り万代の定制としたことを、周公を先聖としてきた旧制の変更として重要な意義を持つとし、太宗の英睿を評価する。
貞観十四年・二十一年:歴代の名儒を顕彰する
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太宗は詔して、梁の皇侃・周の熊安生・隋の何妥・劉炫ら前代の名儒の子孫を捜し出し優賞するよう命じた。貞観二十一年にはさらに詔して、左丘明・卜子夏・公羊高・穀梁赤・伏勝・高堂生・戴聖・毛萇・孔安国・鄭玄ら二十一人の経学者を孔子廟に配享させた。
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(唐仲友の評より)梁陳隋の乱世にあっても先王の経を守り抜いた儒者の子孫に恩を報い、経注の功労者を孔子と共に祀ったことを、太宗の二つの善政と称える。
編者按(戈直)
- 太宗が名儒の子孫を顕彰し、さらに経学の功労者を孔子廟に配享させたことを、儒を崇め道を重んじる姿勢の集大成と評す。
貞観二年:徳行と学識を重んじる人材登用
- 太宗が「政の要は人を得ることにあり、徳行・学識を本とすべきだ」と語ると、王珪は、漢の昭帝の代、偽の衛太子を名乗る者が現れた際、経術に通じた雋不疑が春秋の故事に基づき即座に真偽を見抜いた例を挙げ、学業なき者に大任は務まらないと応じた。
編者按(戈直)
- 漢の諸儒が必ずしも真の儒でなかったとしても経術がこれほどの効を発揮したことを踏まえ、太宗・王珪の徳行学識重視の姿勢を評価しつつ、両者の説く「学」もまた真の儒学に及んでいたかは疑問だと注記する。
貞観四年:五経の校訂と『五経正義』の編纂
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経籍の文字の誤りを正すため、太宗は顔師古に五経の校訂を命じ、房玄齢ら諸儒による審議を経て、諸儒の異論を晋宋以来の古本の考証で説得し、天下に頒布させた。さらに孔穎達らに命じて『五経正義』百八十巻を編纂させ、国学で施行した。
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(唐仲友の評より)漢以来分裂していた経学解釈を統一した功績を評価しつつ、これは「教えを崇める」段階にとどまり「道」そのものには及んでいないと評す。
編者按(戈直)
- 王弼の易、孔安国の書、毛鄭の詩、鄭玄の三礼、杜預の左伝などが正統として定まり他の数十家の学説が廃れた経緯を紹介し、これにより経学の名物度数は明らかになったが、古い象数の学や今文・古文の別、経伝の本来の区分などが失われた面もあると両面から評す。
太宗と岑文本の問答:性と学
- 太宗は中書令岑文本に「人は生来の性質があっても博学によって道を成す。蜃が月光を待って気を吐き、木が燧を待って火を発するように、人の性も学びを待って美となる」と語り、蘇秦の刺股・董仲舒の垂帷(三年間庭も見ずに学問に没頭した故事)を挙げた。岑文本は「性は学びによって情を飭(ととの)え成るものだ」と応じた。
編者按(戈直)
- 太宗のこの論は後世の醇儒にも劣らないとしつつ、岑文本が単に『礼記』学記の言を引くにとどまり、太宗自身の邪心を正す具体的な助言に至らなかった点を惜しみ、「道の明らかならざるは君ありて臣なきがゆえ」と嘆く。