貞觀政要奢侈と放縦(奢縱第二十五)

貞観十一年:馬周、貞観初年の倹約への回帰を説く

  • 侍御史馬周は上疏し、夏殷周漢の各王朝が数百年続いた例と、魏晋以降の諸王朝(三国から隋まで)が数十年で滅んだ例を対比し、その違いは「創業の君が広く恩化を務めたか否か」にあると説いた。太宗は大功で天下を定めたが積徳はまだ日浅く、禹湯文武の道を崇め子孫のために万代の基を立てるべきで、単に「政教に失なきよう当年を保つ」だけであってはならないと諫めた。
  • 馬周は、堯の茅茨土階・禹の悪衣菲食は今さら行えないとしつつ、漢文帝が露台の費用を惜しみ慎夫人に地に曳く衣を着させなかった質素さと、漢の武帝が文景の遺徳に支えられて奢侈をしても人心が動かなかった例を対比し、当今の京師・益州の営造、諸王妃主の服飾が倹約とは言えないことを指摘した。さらに、百姓が隋末の乱の後まだ十分の一の人口も回復していないのに徭役が絶えず、貞観初年は絹一匹で粟一斗しか買えなくても百姓は安んじていたのに、近年は絹一匹で粟十余石買えるほど豊かになっても不急の営造ゆえに怨言があると指摘し、隋の煬帝が周斉の滅亡を笑いながら自らも同じ轍を踏んだ例(京房の「後の今を視ること、今の古を視るが如し」の言)を引き、蓄積そのものではなく民の苦楽こそが興亡を分けると説いた。太宗はこれを容れ、小さな随身器物の造営で百姓の怨嗟を招いたことを「朕の過ちだ」として中止させた。

  • (范祖禹の評より)馬周の諫めが、太宗の美点を伸ばしつつ過ちを未然に救ったと評す。

  • (胡寅の評より)馬周が挙げた諸問題のうち太宗が改めたのは一つのみで、「陛下は禹湯文武の業を隆んにすべきで、単に当年を保つだけであってはならない」との核心の指摘こそ太宗の病であったと厳しく評す。

編者按(戈直)

  • 馬周が三代の帝王の道をもって太宗に「難きを君に責める」姿勢を示したことを評価しつつ、太宗の行いが禹湯文武の道に完全に合致するとまでは言えず、孟子の言う「王者の民は皞皞(こうこう、伸びやかで満ち足りたさま)たり」の境地とはなお隔たりがあったとし、営造の停止一つで貞観の盛治を保てたことは幸いだが、子孫万代の基を立てる域にはまだ及ばなかったと総括する。