貞觀政要仁愛と憐れみ(仁惻第二十)

貞観初:後宮の女性三千人余を解放する

  • 太宗は「深宮に幽閉された婦人は哀れである。隋末は離宮別館にまで多くの宮人を集め民の財力を費やした。掃除以外に用途もないなら、外に出して伉儷(配偶)を求めさせよう」と述べ、後宮・掖庭から前後三千人余りを出した(『通鑑』では貞観二年、旱に際し中書舎人李百薬の上言を受け、戴冑・杜正倫に掖庭西門で選別させたと記す)。

  • (孫甫の評より)隋の煬帝の荒虐に比べ、太宗が三千人を放ったことは天下を感動させた盛徳の事と評す。

  • (尹起莘の評より)晋の武帝が後宮を万人近くに膨らませ身を滅ぼした例と対比し、太宗の措置を盛徳の事と評す。

編者按(戈直)

  • この善政が武徳の初めでなく貞観の初めに行われたことに、父の高祖が果たせなかったことを子が行った意義を見出しつつ、漢の高祖が秦の宮室に淫せず入城時から慎んだ度量にはなお及ばないと評す。

貞観二年:饑饉に際し子女の身売りを贖う

  • 関中の旱魃で饑饉となった際、太宗は「水旱の不調は君の失徳による。朕の不徳を天が朕に責めているのに百姓に何の罪があろうか」と語り、子女を売る者がいることを聞いて憐れみ、御史大夫杜淹を遣わし、御府の金宝で子女を贖い父母に還させた。

編者按(戈直)

  • 孟子が斉宣王の「牛を憐れむ心」を「王たるに足る心」と評した故事を引き、太宗が九重の尊きにありながら饑人の子女に心を配り金宝で贖った仁愛の深さを称える。

貞観七年:辰の日でも哭泣を憚らない

  • 襄州都督張公謹の死に、太宗は喪に服して哭したが、有司が「陰陽書に辰の日は哭泣すべからずとある」と諫めても、太宗は「君臣の義は父子に同じ、情が中から発するのに辰日を避ける理由はない」と述べ、そのまま哭した。

  • (唐仲友の評より)太宗が俗信を退けて哭した姿勢に、人心を感動させる駕馭の器量を見る。

編者按(戈直)

  • 衛の献公が柳荘の死を弔った例、晋侯が荀盈の喪中に酒楽に興じて譏られた例と対比し、太宗の姿勢を賢君の証と評す。

貞観十九年:高麗遠征中の仁恤

  • 高麗遠征の途上、太宗は定州で病の兵士を寝台まで訪ね医療を命じ、将士を大いに感激させた。撤兵の帰路、栁城では戦没者の遺骨を集めて太牢を設け親しく哭し、兵士たちは皆涙した。白巌城攻めでは、負傷した右衛大将軍李思摩(頡利の一族で唐に帰順した将)の傷を太宗自ら口で吸い、将士を感激させた。

編者按(戈直)

  • 太宗の仁恕の心を評価しつつ、そもそも遠国の異民族との争いのために親征し、戦没・負傷を出したこと自体を悔い、惻隠の心は事の後にではなく事の前に発揮されるべきだったと戒める。