貞觀政要倹約(儉約第十八)
貞観元年:民の情に順って興造する
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太宗は「古来、帝王の興造は必ず民情に順うべきだ。禹が九山を鑿ち九江を通したのは民の望むところであったから怨嗟がなかったが、秦の始皇帝の宮室造営は私欲によったため謗りを招いた」と述べ、自ら計画していた一殿の造営を、材木が既に揃っていたにもかかわらず中止した。「無益をもって有益を害さず、欲しがるものを見せなければ心は乱れない」との古語を引き、器物・服飾も驕奢に流れれば危亡を招くとし、公卿以下の邸宅・車服・婚礼喪礼を品秩に応じて制限させた。これにより二十年間、風俗は簡素になり、民は錦繍を纏わず豊かで飢寒を免れたという。
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貞観二年、公卿が「宮中が卑湿なので楼閣を営もう」と願い出た際も、太宗は「気疾があるので卑湿は避けたいが、漢の文帝が十家の産に相当する露台の費用を惜しんだ故事に及ばぬ徳で費用だけ超えるのは民の父母たる道に反する」と再三の願いを退けた。
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(朱黼の評より)人主が倹約を先んじれば風俗全体が質朴になり、漢文帝・唐太宗がともに一つの造営を思いとどまったことで、それぞれ富庶・貞観の治の基となったと評す。
編者按(戈直)
- 材木が既に揃っていた一殿の造営を秦の奢侈を鑑みて中止し、公卿の求める楼閣も漢文帝の倹約に倣って許さなかった太宗の姿勢を、貞観の富庶を致した所以と評す。
貞観四年:己の欲を推して民の欲を思う
- 太宗は「宮殿の造営や池台の遊びは帝王の欲するところだが民の欲するところではない。孔子の『己の欲せざるところ人に施すなかれ』の恕の心をもって、民に労弊を及ぼす事はすべきでない」と語り、魏徴は「隋の煬帝は奢侈を極め、供奉・営造が意に沿わねば厳罰を科した。上の好むところ下は必ずそれ以上に及ぶ、これが滅亡を招いた。陛下が『今で十分』と思えば十分だが、『まだ足りない』と思えば万倍あっても足りない」と応じた。
編者按(戈直)
- 魏徴の「足るを知れば足り、足らずと思えば万倍あっても足りない」との言を君主の格言と称える。
貞観十六年:劉聡の故事に学び造営を中止する
- 太宗は前趙の劉聡が寵妃のために宮殿を造ろうとした際、廷尉陳元達の切諫に怒りながらも、劉后自らが「妾のために諫臣を殺せば天下は妾を罪する」と諫めて聡が思いとどまり、庭園を「納賢園」、堂を「愧賢堂」と改名した故事を読み、「これを深い戒めとする」と述べ、藍田で材木を揃えていた殿閣の造営を中止した。
編者按(戈直)
- 隋の煬帝の奢侈が文帝の仁寿宮造営に端を発していたことを踏まえ、太宗が「帝王の欲は放逸、百姓の欲は労弊を避けること」との恕の心を貫いた点を、色・神仙・征伐・遊猟などあらゆる欲に通じる格言と評し、魏徴の「足るを知る」の言と合わせて君人の格言と称える。
貞観十一年:薄葬の詔
- 太宗は詔して、堯の質素な葬(穀林に通樹)、秦穆公・孔子・延陵季子の薄葬の例を挙げ、逆に呉王闔閭・秦始皇・季孫・桓魋らの厚葬がかえって盗掘・焼却の禍を招いた例(漢の梁商の黄腸再開の故事など)を引き、「奢侈は戒め、節倹は師とすべきだ」と説き、王公以下の葬送の具が令式に反する場合は州府県官が検察し科罪するよう命じた。
編者按(戈直)
- 漢文帝の「北山を槨とする」薄葬の遺詔と対比し、文帝の詔が専ら己一身のためであったのに対し、太宗の詔は天下の人々を倹約に導き暴骸の禍を免れさせようとする意図があった点で、文帝を上回ると評す。
名臣たちの清貧と太宗の厚遇
- 中書令岑文本は卑湿な家に住み帷帳の飾りもなく、産業を営めと勧められても「漢南の一布衣から中書令に至った身、俸禄の重さすら恐れ多いのに産業まで求められようか」と辞退した。
- 戸部尚書戴冑の没後、住居が弊陋で祭享の場もないことを知った太宗は特に廟を造らせた。尚書右僕射温彦博は貧しく正寝もなく旁室で没したため、太宗は嗟嘆して正寝を造らせ厚く賻贈した。魏徴の宅にも正堂がなかったため、太宗は自ら造営中の小殿の材木を回して五日で建て、素褥・布被を賜った。
編者按(戈直)
- 岑文本・戴冑・温彦博・魏徴ら名臣の清貧な暮らしと、太宗がそれぞれに応じて手厚く遇したことを、天下の士を感化する美事と評す。