貞觀政要君臣の戒め(君臣鑒戒第六)

貞観三年:君臣は共に安危を分かつ

  • 太宗は「君臣は本来治乱・安危を共にする。君が忠諫を納れ臣が直言を進めれば君臣は合致する。隋の煬帝は臣下の口を鉗し、虞世基らも誅殺された。前事は遠くない、朕と卿らも慎まねば後世に嗤われよう」と語った。

編者按(戈直)

  • 煬帝を戒めとし世基を戒めとする太宗の言は、突き詰めれば互いが己の身のためを思う心にすぎないが、その私心が結果として天下の公を成すと評す。

貞観四年:隋の冤罪事件を君臣で振り返る

  • 魏徴は、隋の煬帝の代に於士澄が盗賊捜索で二千余人を拷問の末に誣告させ処刑した事件を語り、大理丞張元済が調べたところ数人は無実だったのに官人は煬帝の命令を口実に執奏せず殺害した経緯を述べた。太宗は「煬帝の無道だけでなく、臣下が匡諌しなかったことも罪だ。公らは共に朕を輔け、囹圄を空にできた。始めを克くし終わりを全うしてほしい」と語った。

編者按(戈直)

  • 前段(前ファイルの主旨)は君臣がそれぞれ本分を尽くすことを、この段は君臣が互いに責め合うことを説き、両者相まって貞観の治の本になったと評す。

貞観六年:桀紂と顔閔の対比

  • 太宗は「周秦の初めは似た状況だったが、周は善を積んで八百年、秦は奢侈刑罰に走り二世で滅んだ。桀紂は帝王でありながら匹夫に比べられれば辱め、顔回・閔子騫は匹夫でありながら帝王に比べられれば栄誉となる。これは深く恥ずべきことだ」と語り、魏徴は孔子が桀紂を「己を忘れた者」と評した故事を引いて太宗を戒めた。

編者按(戈直)

  • 善悪の心の在り処一つで匹夫と帝王の評価が逆転することを説き、太宗の言と魏徴の答えがともに桀紂・顔閔の分かれ目を明らかにしたと評す。

貞観十四年:高昌平定後の兢兢の心

  • 太宗は高昌平定を機に房玄齢に「高昌が臣礼を失わなければ滅亡しなかった。この国を平らげたことに却って危惧を懐き、驕逸を戒め忠言を納れる」と語り、魏徴は「古来の帝王は撥乱創業の際は慎むが、天下が安んじると恣情に流れる。張良が漢の高祖の太子廃立に諫めを控えた故事、斉桓公が鮑叔・寗戚に『出奔時・束縛時・飯牛時を忘れるな』と誓った故事」を引いて忠良の登用を求め、太宗は「朕は布衣の時を忘れぬ、公も鮑叔の人となりを忘れるな」と答えた。

編者按(戈直)

  • 高昌平定で唐の版図が最大となった当時、太宗の兢兢の言と魏徴の諄々たる戒めが貞観の太平を成したとし、帝王の心学の要は「欽(つつしみ)」の一字にあると総括する。

貞観十四年:魏徴、君臣一体の理を上疏す

  • 魏徴は長文の上疏で、君を元首、臣を股肱に喩え、伊尹・韓信の故事を引いて君臣の礼遇の重要性を説き、劉向の「六正六邪」の臣下論(聖臣・良臣・忠臣・智臣・貞臣・直臣の六正、具臣・諛臣・奸臣・讒臣・賊臣・亡国之臣の六邪)を紹介し、賞罰が私情に流れず公平であることの大切さ、大臣には大事を、小臣には小事を委ねる原則を守るべきこと、上が下を信じなければ下も上を疑うようになることなどを説いた。太宗はこれを深く納れた。

編者按(戈直)

  • 大禹の「人を知るはすなわち哲」の言を引き、六正六邪の別に必ずしも一つ一つを当てはめる必要はなく、君子か小人かの見極めこそが要であると評す。

貞観十六年:徳・仁・功・利の四つを問う

  • 太宗が「徳・仁・功・利の四つのうちどれが優れているか」と問うと、魏徴は「陛下は四つを兼ね備えるが、強いて言えば禍乱を平らげ戎狄を除いたのが功、民が生業を得たのが利で、功利が多い。徳仁はなお努めてほしい」と答えた。

編者按(戈直)

  • 徳仁は本、功利は用であり、徳仁を積めば功利は自然にその中にあるものだとし、魏徴の答えが本末を分けすぎていると批判的に評す(孟子の「何ぞ利を曰わん、仁義あるのみ」を引く)。

貞観十七年:後継の乱れの原因

  • 太宗が「創業の主の子孫はなぜ乱れが多いか」と問うと、房玄齢は「幼主が深宮で育ち世事に疎いため」と答えたが、太宗は「功臣の子弟が徳義を修めず奢縦に流れることも一因だ」と述べ、隋の宇文化及・楊玄感が恩を受けながら反逆した例を挙げた。岑文本は「君子は徳を懐き恩を荷うが、化及・玄感は小人であったからだ」と答えた。

編者按(戈直)

  • 房玄齢の「幼主が世事に疎い」との説を是としつつ、太宗が功臣子弟に責を帰したのは的外れであるとし、太宗以後の唐の衰亡(高宗・中宗の昏庸、穆宗・敬宗らの乱れ)はいずれも君主自身の咎であったと総括する。