北史卷八十四 孝行

編纂の趣意

  • 『孝経』に「孝は天の経、地の義、人の行なり」とあり、『論語』に「君子は本を務む、本立ちて道生ず、孝悌は仁の本か」とある。『呂覧』も孝を三皇五帝の本務、万事の綱紀とする。聖帝明王は孝を天下に行い天地と徳を合わせ、諸侯卿大夫は国家に行い宗社禄位を保ち、匹夫匹婦は閭里に行い名を千載に揚げる。堯舜湯武・孔墨荀孟の教化もこれに由来する。
  • しかし世が澆薄になるにつれ礼義廉恥が薄れ、高位高禄の者にも愛敬の道が備わらぬ者が多く、逆に貧しい者にも至孝の徳が見られる。
  • 誠が魚鳥に感通するような希有な例だけでなく、日常のわずかな孝養も俗を疾ませる社会にあって尊いとする。為政者が教化を明らかにし、爵賞で勧め、誠意を持って長く続ければ、稀な孝行も広く行われうるとする。
  • 長孫慮ら本伝の人物は稽古の学も俊偉の才もないが、自然の情のまま、あるいは天性に篤く、股肱の力を尽くし愛敬の心を尽くし、位や富貴を顧みない。位人臣を極めた者すら及ばぬ孝の大なることを説く。
  • 編纂方針:『魏書』孝感伝の趙琰・長孫慮・乞伏保・孫益徳・董洛生・楊引・閻元明・呉悉達・王続生・李顕達・倉跋・張升・王崇・郭文恭、『周書』孝義伝の李棠・柳檜・杜叔毗・荊可・秦族・皇甫遐・張元、『隋書』孝義伝の陸彦師・田徳懋・薛浚・王頒・田翼・楊慶・郭世俊・紐因・劉仕俊・郎方貴・翟普林・李徳饒・華秋・徐孝粛のうち、趙琰・李棠・柳檜・杜叔毗・陸彦師・李徳饒は別伝・家伝に収め、残りをここに編集し「孝行伝」とする。

長孫慮

  • 代の人。母が酒を飲んだことに父真が叱責し、誤って杖で打ち死なせてしまった。父は県に囚われ重罪に処されようとした。長孫慮は尚書に上書し、「父母の争いは元来悪意なく、過誤で禍を招いた。母の喪も終わらぬうちに父の命が旦夕に迫り、兄弟5人は幼く自分は15歳の長子、末の妹は4歳。父が処刑されれば孤児たちは路頭に迷う。自分の身をもって父の命に代えたい」と訴えた。尚書は「父には孝子、弟には仁兄」と感じ入り上奏、孝文帝は特に父の死罪を許し流刑に減じた。

乞伏保

  • 高車部の人。父の乞伏居は献文帝時代に散騎常侍・牧曹尚書、寧国侯。忠謹で帝の側近として詔命の出納を務めた。宮人河南宗氏を賜り、死後さらに宮人申氏(宋の太子左率申坦の兄の娘)を賜った。1年余りで居は没し、申氏が乞伏保を養育、厳格に叱責したが乞伏保は孝謹に仕え恨まなかった。父の侯爵を襲い伯爵に降格、左中郎将に累進。俸給の使途は公私を問わず逐一報告した。鄯善鎮将のとき、80余歳の申氏を自ら製作した馬車で扶助し出仕させた。申氏の死後、官を辞し喪を奉じ洛陽へ帰った。再び長兼南中郎将となり没した。

孫益德

  • 楽安の人。母が人に殺された。幼くして母の仇を討ち、家に戻り殯の前で哭泣し官の裁きを待った。孝文帝と馮太后は幼くして孝烈な決断をし逃亡もしなかったことを特に免罪とした。

董洛生

  • 代の人。父の喪に礼を過ぎて哀毀したため、秘書中散温紹伯を遣わし璽書で慰め節度を守るよう諭した。宗親にも諭させ、命を損なうことのないようにさせた。

楊引

  • 郷郡襄垣の人。3歳で父を失い叔父に養われた。母が92歳で没した時、楊引は75歳、哀毀は礼を超えた。喪服を終えても父を知らぬことを恨み、追って斬衰の喪に服し粥食を続け終身を誓った。13年間哀慕を改めず、郡県郷閭300余人が上状して称美し、有司が旌賞を上奏、一門を租税役から免じ純孝の家として顕彰された。詔で集書によりその行いを表彰し散員の名を仮した。

閻元明

  • 河東安邑の人。若くして至孝で郷閭に知られた。太和五年、北随郡太守に任じられた際、親と離れることを悲しみ、母も慕って泣き失明した。悲嘆の訴えにより帰郷を許され、母に会うと母の目が開いた。刺史呂寿恩が上奏し、詔で孝門と表彰、租調・兵役を免じ母の存命中の奉養を許した。母没後も服喪中は心喪を保ち、忌日ごとに悲嘆した。兄弟仲睦まじく、貧に安んじ道を楽しみ白髪まで共にした。
  • (附)猗氏県人の令狐仕は兄弟4人早くに父を失い10年間慕い母を養い孝で知られ、田を耕し施しを惜しまなかった。
  • (附)河東郡人楊風ら750人が、楽戸皇甫奴兄弟が兵籍に沈淪しながらも継母を孝養し恭孝と称されたことを連署した。
  • (附)東郡小黄県人董吐渾・兄董養は事親孝行で3世同居、家門に礼あり。景明初年、畿内大使王凝の上奏で表彰された。

吳悉達

  • 河東聞喜の人。兄弟3人幼くして父母を人に殺された。四時に号泣し郷里を感動させた。長じて仇を報い永安に避難。兄弟40余年同居し閨門和睦、逸楽を譲り労苦を引き受けた。凶年にも粥さえ乏しい中、客を厚くもてなし、守宰の葬儀には車牛を出して送葬、貧窮の隣人には衣食を分け与えた。郷閭500余人が州に称頌し、刺史は父勃海太守を追贈した。後に改葬を試みたが墓所を失い号泣して神に訴えたところ、足下の地が陥没し父の銘記が現れ、曾祖以下3世9柩を改葬、資財を尽くし人手を借りなかった。有司が上奏し門閭を表彰、徭役を免除した。
  • (附)斉州人崔承宗は父が劉宋で漢中に仕え母の喪をそこで営んだが北魏帰属後に隔絶、万里の険を越え喪を負って京師に帰った孝行を黄門侍郎孫恵蔚が「廉範の情」と評し厚く弔った。

王續生

  • 滎陽京県の人。継母の喪に杖にすがってようやく起きるほど哀毀し、喪の礼を全うして鬢髪が抜け落ちた。有司の上奏で宣武帝は門閭を表彰し徭役を免じた。

李顯達

  • 潁川陽翟の人。父の喪に7日間水も飲まず、鬢髪が抜け身体が痩せ衰えた。6年間墓側に廬して哭き続け命を落としかけた。州牧高陽王元雍が上奏、霊太后は門閭を表彰した。

倉跋

  • 滎陽京県の人。母の喪に5日間水も飲まず、数升の血を吐くほど哀毀し州里に称された。有司の上奏で孝武帝が門閭を表彰した。

張升

  • 滎陽京県の人。父の喪に飲水絶塩し哀毀甚だしく骨立し髪も抜け落ちた。評判が高く盗賊もその里を侵さなかった。州の上表で門閭を表彰された。

王崇

  • 字は乾邕、陽夏雍の人。兄弟共に孝で知られ、農耕に励み二親を養った。梁州鎮南府主簿として仕えた。母の喪に杖にすがり髪が抜け落ちた。埋葬前に宅西に仮殯し廬に籠って哭泣、鳩鴿が群れ集まり、黒眸の小鳥が朝夕廬に棲んだ。母の喪明けに続けて父の喪となり哀毀は礼を超えた。この年夏の風雹の被害が王崇の田畑だけを避けて通ったという奇瑞があった。喪明け後も墓側に留まり、室前に異形の草が生え、冬には鳥が屋根に巣を作り雛を育てた。守令が視察し州が上奏、門閭を表彰した。

郭文恭

  • 太原平遙の人。太平県令として70歳を過ぎて父母を失った。祖父母の墓側に住み、裸足で土を運び墓を築くこと年を重ねた。尚書が上奏し門閭を表彰した。

荊可

  • 河東猗氏の人。質朴で容貌に異相があった。刻苦して母を養い常に不足なく甘旨を供した。母の喪に3日間水も飲まず何度も気絶し、墓側に廬して負土成墳、蓬髪のまま菜食した。旧墓域は家から10余里離れた広大な地で、荊可は独り禽獣と共に宿った。西魏の大統年間、郷人の上言で州県が表彰。喪明け後も喪中のように過ごした。大冢宰宇文護(晋公)はその孝行を聞き特に引見、自らも至孝で母閻氏が敵境で消息不明であったため荊可への同情が深く、荊可の死後もその純孝を思い妻子を京城に置いて衣食を給し続けた。

秦族(附:弟榮先)

  • 上郡洛川の人。祖父秦白・父秦雚も至孝で郷里に聞こえた。魏太和中に秦白は潁州刺史を追贈、西魏大統中に秦雚は酈城郡守を追贈された。秦族は父の喪に哀毀甚だしく、母の存命中は哀情を抑え四時の甘旨を欠かさなかった。弟の秦栄先とも友愛深く睦まじかった。母の死後は水と菜のみで過ごし、喪明け後も20年余り蔬食で房室に入らなかった。郷里の王元達ら70余人が上状し門閭を表彰された。
  • 弟の秦栄先も至孝で、父の喪に哀慕のあまり没した。西魏文帝(宇文泰)はその孝行を褒め詔を下し滄州刺史を追贈した。

皇甫遐

  • 字は永賢、河東汾陰の人。代々寒微だが郷里で睦まじいと評された。若くして父を失い母に孝を尽くした。母の喪に墓側に廬し負土成墳、墓南に禅窟を掘り雨天は窟を掘り晴天は墓を営むこと数年、墳は高さ数丈、周囲50余歩、禅窟は12室に及んだ。粥を食し塊を枕に風雨に晒され容貌が変わるほど衰えた。営墓の当初、2羽の鴟鳥が墓側で悲鳴し1か月余り離れなかった。近隣は米麦を贈ったが受けても食べず仏斎に用いた。郡県が上奏し表彰された。

張元

  • 字は孝始、河北芮城の人。祖父張成は平陽郡守を仮官、父張延俊は州郡の功曹主簿を歴任、共に篤実で知られた。張元は謙虚で孝行深く、経史に通じ仏典に精通した。6歳の時祖父に暑さゆえ井戸で水浴を勧められたが「体を露わにするのは不徳」と固辞し、杖で打たれても白日の下で肌を晒すことを拒み、祖父を感心させた。
  • 隣家の杏の実が落ちてきても子供たちが取り合う中、張元は拾ったものを持ち主に返した。捨てられた子犬を拾って育て、叔父に叱られても「生あるものは命を惜しむ、天が生かしたものを人の勝手で殺すのは不仁」と説き許された。後にその母犬が死んだ兎を張元の前に置いて去った逸話がある。
  • 16歳の時、祖父が3年来失明していたことを憂え、昼夜『薬師経』を読み祈った。「盲者得視」の句を見て7人の僧を招き7日7夜灯明を点し行道、「祖父の目が見えるなら自分がその暗さを代わりに負いたい」と祈願、7日目の夜に金の鑱で祖父の目を治療する老翁の夢を見て翌日祖父の目が開いた。その後祖父の病臥2年間、食事も衣冠も解かず昼夜付き添い、祖父の死には号泣して気絶するほど哀毀、父の喪にも3日間水を断った。県博士楊軌ら200余人が上状し門閭を表彰された。

王頒(附:弟頍)

  • 字は景彦、太原祁の人。父王僧弁は『南史』に伝がある。若くして俶儻不羈、文武の才幹があった。侯景を平定した父に随い荊州に留まったが、梁元帝が西魏軍に敗れた際に関中に入った。父が陳武帝(陳霸先)に殺されたと聞き号泣して気絶、喪が明けても布衣蔬食で藁に伏す生活を続けた。北周明帝に評価され左侍上士、漢中太守を経て儀同三司。
  • 隋開皇初年、蛮族平定の功で開府・蛇丘県公。陳討伐の策を上奏し文帝を感嘆させた。大挙陳討伐の際は自ら従軍を願い、韓擒虎の先鋒として夜間渡江、力戦して負傷、悲嘆に暮れる中で夢に薬を授かり傷が癒えたという逸話がある(時人は孝感と評した)。
  • 陳滅亡後、王頒は密かに父の旧部下1000余人を集め、壮士の一人が父の仇を晴らすため陳霸先の陵墓を暴くことを提案した。王頒は額を血に染めて謝意を示しつつ夜に陵を暴かせ、遺骨(髭が抜けていなかった)を焼いて灰を水に投じ飲んだ後、自ら縛って罪に服した。晋王楊広がこれを上奏、隋文帝は「義兵として陳を平らげたのだから孝義の道、咎めがたい」と赦した。戦功による柱国授与と物5千段の賜与を王頒は「怨恥を雪いだのは私事、国の為ではない」と固辞、文帝はこれを容れた。代州刺史として善政を敷き、斉州刺史として卒した。
  • 弟の王頍、字は景文。江陵陥落時幼くして諸兄と関中に入った。若くして遊侠を好み20歳まで書を知らず兄王顒に責められて発奮、『孝経』『論語』から『左伝』『礼』『易』『詩』『書』まで昼夜怠らず学び「書に読めぬものなし」と嘆じた。数年で五経に通暁し儒者に称賛された。文章に巧みで談論に優れた。30歳で北周武帝の露門学士となり議事に多く参与。博識で諸子・異書に通じ博物と称され、兵法にも通じ将相を自任した。
  • 開皇五年、著作佐郎として国子講授を兼ねた。文帝親臨の釈奠で国子祭酒元善の『孝経』講義に論難を挑み論破、国子博士に抜擢されたが事件で解職され嶺南に流された。
  • 数年後、漢王楊諒の府諮議参軍。楊諒が異志を抱いた際に甲兵を整えるよう勧め、後にも度々奇策を進言したが用いられなかった。楊素との蒿沢での決戦を前に「天候が悪く敗れる」と息子に予言、敗戦後に突厥への逃亡を図るも道が絶たれ「自分の計は楊素に劣らぬが用いられずここに至った、豎子の名を成すために生け捕られるわけにいかぬ」と告げ自害、石窟に埋められた。息子は数日飢えた末に旧知を頼ったが密告され捕えられた。楊素が王頍の屍を求めて斬首し太原に梟首した。著書『五経大義』30巻、文集20巻は兵乱で失われた。

楊慶

  • 字は伯悦、河間の人。祖父楊玄・父楊剛は共に至孝で知られた。楊慶は容儀優れ弁が立ち、16歳で北斉国子博士徐遵明に見出された。長じて書記に通じた。25歳で郡から孝廉に推挙されたが母への侍養を理由に赴任しなかった。母の病に70日間帯を解かず看病し、母の喪には哀毀骨立、負土成墳。北斉文宣帝が門閭を表彰し帛と綿粟を賜った。隋文帝受禅後も度々褒賞され儀同三司、平陽太守を仮官、家で没した。

田翼

  • 出自不詳。母を孝養したことで知られる。継母が1年余り病臥した際、母の乾湿を自ら替え、母が食べれば食べ食べなければ食べなかった。隋開皇年間、母が急な下痢を患い田翼は毒によるものと疑い自ら汚穢を嘗めた。母の死に一慟して絶命、妻も悲しみのあまり没した。郷人が手厚く葬った。

紐因(附:子士雄)

  • 字は孝政、河東安邑の人。至孝な性格。北周武成年間、父母の喪に墓側に廬し負土成墳。廬前に生えた一株の麻が高さ一丈余に育ち、鳥が棲んで紐因が哭くと鳥も悲鳴したという。北周武帝が門閭を表彰し甘棠令に抜擢。隋開皇初年に没した。
  • 子の紐士雄も質直孝友、父の喪に墓側に廬し負土成墳。庭前の槐の木が士雄の服喪中に枯れ、喪明けとともに再び茂ったという逸話がある。隋文帝はこれを聞き父子の至孝を嘆じ、居所を「累徳里」と号するよう詔した。

劉仕俊

  • 彭城の人。至孝な性格。母の喪に何度も気絶し7日間水も飲まなかった。墓側に廬し負土成墳、松柏を植えると虎狼も馴れ食を運んだという。隋文帝受禅後、門閭を表彰された。

翟普林

  • 楚丘の人。孝で知られ、州郡の招聘に応じず自ら耕して親を養った。郷閭は「楚丘先生」と呼んだ。父母の病に70日間衣を解かず看病、大業初年に父母が相次いで没すると哀毀は命を損ないかねぬほどで、墓側に廬し負土成墳、真冬でも単衣で過ごした。家の鳥犬も墓に随い普林の哭泣に合わせて悲鳴し、2羽の鵲が廬前の柏に巣を作り馴れ懐いた。司隷の巡察で孝感が上奏され孝陽令に抜擢された。

華秋

  • 汲郡臨河の人。幼くして父を失い母に孝を尽くした。家貧しく雇われ仕事で養った。母の病に容貌が変わるほど憔悴し、母の死後は髪を洗わず全て抜け落ちた。墓側に廬し負土成墳、助力を申し出る者には拝して辞退した。隋大業初年、郡県の大猟の際に逃げ込んだ兎が華秋の膝下に匿われ、猟人がこれを見て免じたという逸話がある。以後この兎は廬に住み馴れ懐いた。郡県が孝感を上奏し、勅使が慰問して門閭を表彰した。後に群盗が横行する中でも「孝子の郷を犯すな」と互いに戒め合い、華秋のおかげで多くが助かったという。

徐孝肅(附:弟德備、子處默)

  • 汲郡の人。一族数十家が豪奢を競う中、徐孝肅のみ倹約を守り孝で知られた。幼い頃から宗族の争いは孝粛の裁定に委ねられ、非のある者は必ず自ら過ちを認めて退いた。幼くして父を知らず、成人後に母から父の姿を聞いて画工に描かせ廟に安置し朝夕定省、朔望に祭った。母を至孝に養い数十年間怒りの色を見せなかった。母の老病には自ら乾湿を替え、数年間憂え衰えた。母の喪に蔬食飲水、真冬でも単衣で骨立するほど哀毀した。祖父母・父母の墓はいずれも負土成墳、40余年墓側に廬し、髪を振り乱し裸足のまま終生を過ごした。
  • 弟の徳備が没すると、その子処黙もまた墓側に廬した。代々孝行で称された。

史論

  • 天地を塞ぎ四海に横たわるものは孝のみである。孝は愛敬の心に始まり哀思の道に極まるが、その帰結は一つである。上智の者は自然の質を稟け、中庸の者は努力してこれに及ぶが、成し遂げた美徳に変わりはない。長孫慮らは公卿の家に生まれ礼教の資を得た者もあれば、貧しい茅屋に生まれ教化によらず至った者もある。皆、心のままに理に適い礼教を逾えず、感応するところ神明に通じた。負土成墳のあまり命を損なう行為は先王の礼制にはやや外れるが、そこに見える真情はまさに「過ちを見て仁を知る」というべきものである。