北史卷八十二 列傳第七十儒林下 王孝籍
不遇を牛弘に訴えた博学の士
- 平原の人。少くして好学で群書を博覧し《五経》に遍通し文章にも長じ、河間の劉炫と親交を結んだ。開皇中、秘書省に召され王劭の国史編修を助けたが劭には礼遇されなかった。
- 省に長年在籍しながら税役も免除されず鬱々として不遇を託ち、吏部尚書牛弘に長文の上申書を送り、痛苦と貧窮を切々と訴え、久しく東観に埋もれ十年も昇進せず知己を得られない苦しみを、王稽と応侯・卞和の玉・百里奚と禽息の故事などを引きながら哀願したが、牛弘もその学業を知りながら結局昇進は叶わなかった。
- 後に帰郷し教授を業として家で世を終えた。《尚書》《詩》の注釈は戦乱で散逸した。
史論
論曰:古語に「容貌は取るに足らず、勇力も恃むに足らず、家柄も語るに足らず、先祖も誇るに足らないが、それでも四方に聞こえ後世に名を残す者があるとすれば、それは学問による」とある。梁越以下、篤志不倦で己に求め、あるいは門徒千百人を集め、あるいは冕を着け軒車に乗るに至ったのは、みな稽古の力である。
しかし遠く漢魏を思えば碩学は概ね清通であったのに、近古の巨儒には鄙俗な者が多い。これは昔の人々が特別に賢く今の人々が愚昧だからではなく、用いられるか用いられないか、知られるか知られないかの違いによる。昔は国政を輔けるのに鴻儒の徳を挙げたが、近代は刀筆吏から人材を取るため、どれほど学問に優れ苦学した者でも、名声が高くとも巡り合わせが悪ければ栄達は望めず、時運が去れば草莽に棄てられる。ゆえに昔の学者は禄がその中にあったが、今の学者は貧賎に苦しむ。明達の士がどうしてあえて学業に留まり貧賎を求めようか。これが儒に通人少なく学に鄙俗多い所以である。
劉焯に至っては、徳は縉紳に冠たり、天象を数窮め、精緻かつ博識で幽微を洞察し、数百年来この一人のみと評される。劉炫も学は実に通儒で務めを成す才があり九流七略に該博だったが、探賾索隠では焯に及ばず、義説の完成度では焯を上回った。ともに時運に恵まれず溝壑に餒え棄てられた。これはまさに子夏の言う「死生は命あり、富貴は天にあり」であり、天が聡明を与えても貴顕を与えぬのは、上聖でさえ免れぬところ、焯・炫も命にはどうしようもなかった。王孝籍もただ文章に離騒(憂いを述べる)するばかりで、何を救えただろうか。