北史卷八十二 列傳第七十儒林下 房暉遠

「五経庫」と称された考試の達人

  • 字は崇儒、恒山真定の人、代々儒学を伝える家柄。幼くして志行があり《三礼》《春秋三伝》《詩》《書》《周易》に明るく図緯にも通じ、遠方から千人単位の門徒が師事した。
  • 斉の南陽王綽が定州刺史の際、その名声を聞き博士に招いた。北周武帝の斉平定後、儒者を求める際に真っ先に応じ小学下士を拝した。
  • 隋文帝受禅後、太常博士に遷り、太常卿牛弘は常に「五経庫」と称賛し、吏部尚書韋世康の推薦で太学博士に遷り、鄭訳とともに楽章を修正、再び太常博士を経て国子博士に擢用された。
  • 通経の国子生を薦挙擢用する制度で、策問後に博士が優劣を決められずにいた際、祭酒元善に問われ「江南・河北で経義の解釈が異なり博士も全ては渉猟できない、学生も自らの得意を主張し博士も自信が持てないため決着しない」と答え、暉遠が判定を任されると、筆を執って躊躇なく採点し、不服な者には伝承の義疏を問うと始終を暗誦して非を明らかにしたため誰も詭弁を弄せなくなった。四、五百人の試験を数日で終えたという。
  • 令式の修正にも参与した。文帝が「古来天子に女楽はあったか」と群臣に問うた際、楊素以下誰も答えられず「無い」と答えたが、暉遠は《詩》「窈窕淑女、鐘鼓楽之」を引いて王者の房中の楽であり無いとは言えないと反論し、帝は大いに喜んだ。仁寿中、官で卒し朝廷は嘆惜して手厚く弔い、員外散騎常侍を贈られた。