生涯
- 字は武弄、天水の人。祖の超は魏の秦州刺史。父の襲慶は周に仕え開府となった。武元皇帝(宇文泰)が周将だった時、并州で齊軍と戦い、襲慶は従軍して数百重に囲まれ矢が尽きるまで力戦、刀槊も折れると兜を脱ぎ捨て賊を罵り殺された。
- 權武は忠臣の子として開府を拝し齊郡公の爵を襲いだ。果敢剛勇で人並み外れた膂力を持ち、重い甲のまま馬に乗れた。井戸に逆さに落ちても泉に届く前に跳び出るほど敏捷であった。しばしば軍功で領地を加増され、周宣帝の時、勁捷左旅上大夫を拝し上開府に進んだ。
- 隋文帝が丞相となると側近に置かれた。陳平定の役で行軍總管として晉王楊廣に従い六合を出、豫州刺史を拝した。開国の功臣として大將軍に進み潭州總管を検校した。その年、桂州の李世賢が反乱を起こし、行軍總管として武候大將軍虞慶則とともに討平した。虞慶則が罪で誅されると功績は認められず、また州に戻された。
- 嶺南の酋長に多くの金帯を贈って財物を得て富を築いた。晩年に一子を得て親客と宴し、酔って擅に部下の獄囚を赦した。南越が辺境で遠いことから政治を現地の習慣に任せ律令に厳格でなく、常に「今の法は厳しすぎ、官には就けない」と言っていた。上がこれを調べさせると事実が確認され斬刑を命じられたが、権武は獄中から上書し父が武元皇帝の馬前で戦死したことを訴え除名にとどまった。
- 仁壽中、大將軍に復し封邑も旧に復した。まもなく太子右衛率を授かった。煬帝即位後、右武衛將軍を拝したが事に坐して免ぜられ、後に右屯衛大將軍となるも再び事に坐して除名され、家で卒した。子は弘。