北史卷七十七 列傳第六十五 杜整

杜整

  • 杜整は字を皇育、京兆杜陵の人。祖の盛は魏潁川太守、父の辟は渭州刺史。整は若くして気概があり、九歳で父の喪に哀毀骨立、母には孝で聞こえた。長じて驍勇膂力に優れ『孫呉兵法』を好んだ。魏の大統末、武郷侯を襲爵、周文帝に親信として引かれ、儀同三司・武州刺史に累進、周武帝の斉平定に従い上儀同・平原県公に進み勲曹中大夫に入った。
  • 隋文帝が相となると開府に進み、受禅後は上開府・長広郡公に進み左武衛将軍を拝命した。開皇六年、突厥犯塞に対し衛王爽の北伐に行軍総管・元帥長史として従い合川に至ったが敵に遭わず還った。陳討伐の策を密かに上奏しこれが用いられ、行軍総管として襄陽を鎮めた。官にて没し、文帝は悲しみ諡を襄とした。子の楷が嗣ぎ開府に至った。弟の粛も志行があり北地太守に至った。

史論

  • 大廈の構えは一本の枝によらず、帝王の功業は一士の策略のみによらない。長短それぞれの用があり大小それぞれ相応しい場があるように、棟梁の材はどれも棄てがたい。裴政・李諤・鮑宏・高構・栄毗・陸知命らはあるいは道義に文を能くし、あるいは才で時政を助け、その識見と用は当代に顕れ事績は台閣に留められた。有隋の多士の中でも、物事を成す働きにおいて廊廟の榱桷(垂木)であり北辰を巡る衆星に等しい。
  • 趙綽が大理にあっては牢獄に冤罪がなかった。柳彧が憲台にあっては奸邪が自ら慎んだ。しかし権勢に憚らず直言を貫いた点では梁毗こそその人であり、邦の司直としては柳彧がそれに近い。杜整は声績をもって美を著したと言えよう。