字建平
- 張衡は河内の人。祖の嶷は魏河陽太守、父の允は周万州刺史。
- 衡は十五歳で太学に学び、周武帝が太后の喪に出猟しようとした際、髻を露わにし棺車を輿いて馬を扣え諫め、帝に嘉されて漢王侍読に抜擢された。沈重に『三礼』を学んだ。掌朝大夫に進んだ。
- 隋文帝受禅後は司門侍郎、晋王広の河北行台では刑部・度支の二郎を歴任、行台廃止後は并州総管掾。王が揚州に転じると再び掾となり、王の奪宗の計は多く衡の献策によった。揚州総管司馬に遷り、熙州の李英林の反乱を平定して開府を拝命。王が皇太子になると右庶子となった。
- 煬帝即位後、給事黄門侍郎・御史大夫と重用され、大業三年、帝が太原から衡の郷里河内に立ち寄ることを望んだ際、衡は太行を開いて直道九十里を作らせ、帝は三日滞在し田三十頃・良馬・金帯・縑彩などを賜った。
- 衡は籓邸以来の旧臣として恩寵が厚く驕慢になった。汾陽宮の拡張を諫めたことが帝の不興を買い、「張衡は自分の計画で私に天下を取らせたと思っている」と評された。斉王暕の失寵の際、暕の違制を糾さなかった責を負わされ榆林太守に左遷された。
- 楼煩城築造の督役に赴いた際、衡が痩せていないことを帝が咎め、再び榆林に戻された。江都宮の督役では宮監との訴訟を処理せず、訴えた者が礼部尚書楊玄感に冤を訴え、玄感は衡を不可とし「薛道衡は真に枉死である」と衡が語ったことも上奏された。江都郡丞王世充も衡の頓具削減を訴え、帝は激怒し衡を市に引かせ斬ろうとしたが、除名して田里に放った。帝は常に人を遣わし衡の動静を探らせた。
- 大業八年、遼東より還った帝は衡が怨望誹謗していると聞き、家で死を賜った。臨死に「人のために何をしたのか、それでも長らえたいものか」と大言したと伝わる。武徳初、罪なく死んだとして大将軍・南陽郡公を贈られ諡は忠。子は希玄。