字彥文
- 郭衍は自ら太原介休の人と称した。父の崇は魏孝武帝に従い関中に入り侍中となった。衍は驍武で騎射を善くし、建徳中に軍功で儀同大将軍に進んだ。
- 周武帝の并州平定に従い開府・武強県公に封ぜられ叱羅氏を賜った。宣政元年、右中軍熊渠中大夫となり、尉遅迥の乱では韋孝寬に従い上柱国・武山郡公に進んだ。隋文帝に周の諸王誅殺と禅代の断行を密かに勧め、深く親昵された。
- 開皇元年、郭姓に復した。突厥侵入の際は行軍総管として平涼に屯し、数年虜を寄せ付けなかった。開漕渠大監として渭水を引く渠(富人渠)を開き関中を潤した。
- 瀛州刺史のとき秋の大水で属県が水没する中、自ら船筏を備えて民を救い、先に倉を開いて賑恤し後に上奏、文帝に大いに称された。朔州総管では屯田を置き桑乾鎮を築いて称旨を得た。
- 晋王広の揚州鎮出兵に従い、江南の反乱を討ち東陽・永嘉・宣城・黟・歙の諸洞を平定、蔣州刺史となった。
- 衍は下に対し倨傲、上に対し卑屈で、晋王に寵愛された。王が太子の座を奪う謀を進める際、衍は腹心として動き、宇文述を通じて計を通じた。妻の病を口実に江都との往来を重ね、広州の俚族反乱を偽って王が兵を動かす名目を作り、甲仗を蓄え士卒を養った。王が太子になると左監門率・左宗衛率となり、文帝崩御に際しては太子・楊素の矯詔により宿衛を掌握、漢王諒の反乱時には京師守備の総兵を任された。
- 大業元年、左武衛大将軍。煬帝の江都行幸・吐谷渾征討に従った。衍は帝の意を能く汲み、帝は「私と心を同じくするのは郭衍のみ」と語った。また帝に遊興を勧め五日に一度しか視事しないよう促し、孝順と称された。大業六年、真定侯に封ぜられ江都行幸に従い没した。左衛大将軍を贈られ諡は襄。
- 長子の臻は武牙郎将、次子の嗣本は孝昌令。