北史卷六十八 列傳第五十六 賀若誼
経歴
- 敦の弟誼。性剛果,幹略あり。周文が関中に拠った際,左右に引き入れられ累遷して儀同三司・略陽公府長史。周閔帝受禅後,覇城県子に封じられ開府を加えられ,原・信二州総管を歴任。兄敦が讒毀により誅されるとこれに坐して免官。武帝の斉平定に従い洛州刺史を拝し建威県侯に進封。開皇中,左武候将軍・海陵郡公。のち突厥が辺患となると,誼はかねてより威名があり霊州刺史を拝し柱国に進位。誼は老年であったがなお重い鎧を着て馬に乗り,北夷から大いに憚られた。数年後,上表して致仕を乞い,家で卒した。子挙が爵を襲う。
史論
周文帝は禍乱の時に遭遇し,征伐によって海内を平定した。大は数百万の兵を連ね存亡に関わり,小は辺境で転戦し月を隔てず戦いが続いた。ゆえに兵は少長を問わず士は賢愚を問わず,皆筆を投げ功を求め戈を横たえて奮い立った。豆盧寧・楊紹・王雅・韓雄らは,あるいは雲漢に翼をなし,あるいは屯難において功績を挙げ,時代が移っても名は終始成った,美なるかな。豆盧勣は誉れが分竹(封爵)に宣べられ,毓は節が危機に臨んで現れた,これを「徳を載せ賢を象る」というべきである。観徳王(楊雄)は位が台兗に登り慶は後嗣に流れ,この寵禄を保ったのは実に仁厚の致すところであろう。王世積は俊才多しといえど,かえってそれが害となった。賀若敦は志略慷慨,深く敵境に入り,強敵がその糧道を絶ち江淮がその帰路を阻んだ。危機に臨んで策は尽きず事が迫って雄心はますます励まされた,ゆえに死地を渡り全軍で帰ることができた。しかし茂勲は記録されず厳刑がすぐに及んだ,天下はこれによって宇文護がその位を全うできないことを知った。南北分裂して以来,ほぼ三百年。隋文帝はここに千載の運に応じ天下を統一しようとした。賀若弼は慷慨として必取の長策を申べ,韓禽は奮発してその勇を尽くして先を争った。隋氏はこの一戦により威を四海に加えた。天道を考えれば興廃には時があるが,人謀を考えればまことに二臣の力である。その俶儻たる英略は賀若弼が多く,武毅たる威雄は韓禽が重んじられた。晋の王渾・杜預に比べれば勲功はなお余りある。しかし賀若弼は功成り名立った後も驕矜がやまず,ついに非命に斃れた,これも身を慎まなかったことによる。もし父の臨終の言葉を念じていれば,必ずやこの禍には及ばなかっただろう。韓禽は代々将家に生まれ威声が世を動かし,敵国破れた後も名を遂げ身を全うした,幸いというべきである。広陵(僧壽)・甘棠(洪)は,ともに武芸に優れ,驍雄の胆略はともに当時に推された。赳赳たる幹城,難兄難弟というべきである。