北史卷六十七 列傳第五十五 段永

知略と清廉

  • 字は永賓、その先祖は遼西石城の人で、晉の幽州刺史段疋磾の後裔にあたる。曾祖の段愄は魏の黄龍鎮将として高陸の河陽に移り住んだ。永は幼くして志操があり郷里に称えられた。魏の正光末、北鎮が乱れると老幼を連れて中山に避難し、後に洛陽に赴いて平東將軍を拝命、沃陽縣伯に封じられた。
  • 青州人崔社客が反乱を起こすと永がこれを討平し侯に進爵、左光祿大夫を拝命した。当時、賊魁元伯生が崤・潼から鞏・洛に至る一帯で城壁を陥れる被害を出しており、孝武帝は京畿大都督疋婁昭に討伐を命じ、昭は五千の兵を望んだが、永は「この賊には城柵もなく略奪だけを頼みとしている、速さこそが要で数は要らない、電光石火の奇襲であれば精騎五百で十分」と進言した。帝はこれに従い昭に代えて永に五百騎で急襲させ、賊を破り平定した。
  • 孝武帝の西遷に永は従うことができなかった。大統の初め、同族と謀って密かに帰順を図り、都督趙業らとともに西中郎將慕容顯和を襲撃して斬り首を京師に送った。功により昌平縣子に別封され徐州刺史となった。竇泰の捕縛、弘農奪還、沙苑の戦いにも功を立て公爵に進んだ。河橋の戦いでは力戦して先登し南汾州刺史を拝命。驃騎大將軍・開府儀同三司に累進し爾綿氏の姓を賜った。廢帝元年(552年)恆州刺史を拝命。当時、朝廷の要人に永の部下出身者が多く、永を訪ねる者の車馬が路を埋め尽くしたといい、当時の栄誉とされた。
  • 周孝閔帝踐阼後、廣城郡公に進爵。文州・瓜州の刺史、戶部中大夫を歴任。保定四年(564年)大將軍を拝命。永は内外の要職を歴任していずれも評判が良く、財を軽んじ士人を厚遇したため朝野に重んじられた。天和四年(569年)小司寇を拝命。まもなく右二軍総管として北道講武の兵を率いた際に病を得て賀葛城で没した。喪が届くと武帝は自ら弔問し、使持節・柱国大將軍・同州・華州など五州刺史を追贈し諡は基。子の段岌が跡を継ぎ儀同三司・兵部下大夫に至った。