剛直な将
- 廣寧の人。父の楊安仁は魏の朔州鎮将。纂は若くして慷慨で志略に富み、勇力は人並み外れていた。二十歳のとき齊神武(高歓)が信都で挙兵した際に軍功を立て武州刺史に累進したが、恩賞が薄いと不満に思い「大丈夫が富貴を求めるのに故郷にこだわる必要があろうか、妻子に心を煩わされては雄志を挫くだけだ」と常々嘆いていた。
- 大統の初め、密かに関中へ入った。周文帝は纂の手を執って「人が貴ぶのは忠義であり、恐れるのは危亡である。危亡を恐れずこの忠義を貫く者を、私は今初めて卿に見た」と述べ、征南將軍・大都督を授け永興縣侯に封じた。周文帝の洛陽包囲解除、河橋・芒山の戦いに従い、纂は常に先陣を切って軍中の評判となり、驃騎大將軍・開府儀同三司に累進、侍中を加えられ公爵に進み莫胡盧氏の姓を賜った。まもなく岐州刺史に任じた。
- 周孝閔帝踐阼後、宋熙郡公に進爵。保定元年(561年)大將軍に進み隴東郡公に改封され隴州刺史となった。隨公楊忠の東征に従い并州まで進んで戻った。天和六年(571年)柱国大將軍に進み華州刺史に転じた。纂は質朴な性格で文字も知らなかったが、歴任した職務では常に誠信を尽くし、吏民はその実直さを敬い懐いた。任地で没した。子の楊睿は上柱国・漁陽郡公に至った。