北史卷六十四 列傳第五十二 韋孝夐
京兆杜陵の人、字は敬遠。孝寬の兄で、終生仕官を固辞し隠逸に徹した高士。北周の歴代皇帝から厚く敬愛され「逍遙公」と号された。晩年は薄葬を命じ質素に終えた(享年七十七)。子の世康は隋の吏部尚書・荊州総管として名声を得、世康の弟洸・藝・沖も地方長官として活躍した。
年表(4件)
- 建德中(572-)577年子らに薄葬を命じる
- 宣政元年578年自宅で没す。享年七十七
- 開皇七年587年子の世康、襄州刺史に任じられるが事に坐して免官、のち安州総管・信州総管
- 開皇十三年593年世康、再び吏部尚書となる
隠逸の生涯
- 孝寬の兄。名は夐、字は敬遠。志は簡素を尊び栄利に淡白であった。弱冠で雍州中従事に召されたが好むところではなく、病と称して辞した。以後十度招聘されたがいずれも応じなかった。
- 周文帝が王業を経営しつつ賢者を求めていた折、夐が隠棲していると聞いて心を寄せ、使者を送り礼を尽くして招いたが、夐の誠意には応じきれず志を曲げなかった。周文帝はかえってその節を重んじ、無理強いはしなかった。
- 夐の住まいは林泉に恵まれ、琴書を弄びのびのびと自適して、時人は「居士」と呼んだ。その閑素を慕う者が酒を持って訪ねると、夐も歓待して疲れを忘れるほどであった。
- 明帝の即位後は礼遇がいっそう厚くなり、詩を贈られた(潁陽の許由・滄州の隠逸を引きつつ隠者への敬意を示す内容)。夐も返詩を送って時折の参内を約し、帝は喜んで日々河東の酒一斗を給し「逍遙公」と号した。
- 晉公宇文護が政権を握り邸宅を盛んに造営していた頃、夐を招いて政事を尋ねると、夐は「酒色に耽り豪奢な家を営むこと、そのどちらかがあれば身を滅ぼさぬ者はいない」と婉曲に諫めた。護は不快に思ったが、識者はこれを見識ある言と評した。
- 陳から尚書周弘正が使者として来た際、夐の名を聞いて面会を望み朝廷が許可すると、二人は終日語り合い遅く会ったことを悔やんだ。後日周弘正は夐を賓館に招いたが夐が時間通りに来なかったため「德星猶未動、真車詎肯來」(賢者を象徴する星がまだ動かぬのに、招きの車がどうして来ようか)という詩を贈った。夐は当時の人々にこれほど敬慕された。
武帝・宣帝との交流と晩年
- 武帝が夐と夜に宴を催し多くの絹帛を賜って侍臣に負わせて送らせたが、夐はそのうち一匹だけを受け取り、恩旨を承知した証としただけであった。帝はこれによりいっそう夐を重んじた。
- 孝寬が延州総管であったとき、夐が訪ねて別れ際に孝寬が乗馬と轡を贈ったが、夐はその華美を喜ばず「昔の人が簪や履を惜しまなかったのは、それを拾った者と行動を共にしないためだ。私の節操は先賢に及ばぬが、古いものを捨てて新しいものを取るのも私の志ではない」と述べ、古い馬に乗って帰った。
- 武帝が仏・道・儒の三教の優劣を論じるよう命じると、夐は三教とも究極は善に帰するもので優劣の跡はあっても道理に上下はないとし、『三教序』を著して奏上、帝は称賛した。
- 宣帝が東宮であった頃も書を送り、自らの乗馬で夐を迎えて立身の道を尋ねた。夐は『左伝』の「倹は徳の恭、侈は悪の大なり」を引き、欲望と志を抑えるべきと諭した。
- 夐の子韋瓘が随州刺史代行のまま病没したのと同じ日に、孝寬の子韋總が并州で戦死する報が届いた。一族が悲しみに沈む中、夐だけは平静を保ち「死生は命であり、去来は常のこと、悲しむには足りない」と述べて琴を弾じ続けた。
- 夐は名節を重んじ、心を虚しくして人を導くことを好み、耕作者や牧童であっても取るべきところがあれば必ず親しく交わった。特に族人の韋処玄・安定の梁曠と放逸の交友を結んだ。若くから文史を愛し著述に励み数十万言を手ずから抄録したが、晩年は虚静を旨とし旧作の原稿はことごとく削り捨てたため、文筆はあまり伝わらなかった。
- 建德中(572-577年)年老いてから子らに薄葬を命じた。皇甫謐(士安)が籧篨(竹むしろ)で遺体を包んだ故事や楊王孫が布嚢で屍を覆った故事を引き、「自分の死後は古い衣を着せて棺は屍を覆う程度でよく、牛車で柩を運び墳墓は高さ四尺・深さ一丈にとどめよ。朝夕の供物は煩雑にすぎるので朔望の一度に留め、供物は野菜など質素なものとし牲牢(動物の犠牲)は用いるな。弔問の品も受け取るな」と戒めた。
- 宣政元年(578年)二月に自宅で没した。享年七十七。武帝は使者を遣わして弔い、賻贈を加えた。喪儀・葬礼は子らが遺言通りに行った。子は韋世康。
韋世康――経歴と治績
- 幼くして沈着で器量があり、十歳で州に主簿として召された。魏では弱冠で直寝に任じ漢安縣公に封じられ、周文帝の娘襄樂公主を娶り儀同三司を授かった。周に仕えては典祠下大夫・沔州硤州の刺史を歴任した。
- 武帝の齊平定に従い司州総管長史となり、平定直後で未だ安定しない民心を懐柔してよく治めた。戶部中大夫となり上開府に進み司会中大夫に転じた。尉遲迥の乱の際、隋文帝は「汾・絳はもと周と齊の境界であり、この動乱で動揺しかねない、公に任せる」として絳州刺史とし、その声望をもって鎮めさせ、州内は静粛に保たれた。
- 世康は淡白な性格で古を好み、得失にこだわらなかった。任官のまま隠退を志し、子弟に手紙を送って「若くして官界に身を投じ、四紀(約四十八年)にわたり駆け回り、方岳の重職を歴任してきた。清廉と慎重を旨としてきたが、老いて視力は衰え、足も弱った。禄が多くとも満ちれば退くべき、齢が暮れずとも病があれば辞すべきである。まして母は既に高齢で朝夕の孝養が欠ければ罪は自分にある。今、世穆・世文の兄弟は軍務に、自分と世沖も遠任にあり、母を思う心はいっそう切実である」と述べた(桓山の悲しみになぞらえる)。だが弟たちの反対によりその願いは実現しなかった。
- 任官中は善政を挙げ考課は連続して最上位となり、礼部尚書に抜擢された。世康は欲を寡くし権勢を慕わず、地位を鼻にかけることもなく、人の善行を聞けば自分のことのように喜び、人の過ちを言い立てて名声を求めることもなかった。上庸郡公に進爵。吏部尚書に転じ選用は公平で情実に流されなかった。母の喪に服すため辞職を願ったが許されなかった。
- 開皇七年(587年)南方経略のため方鎮を重視する議論の中、襄州刺史に任じられたが事に坐して免官。まもなく安州総管、次いで信州総管。開皇十三年(593年)再び吏部尚書となり、十数年にわたり多くの人材を登用し朝廷から廉平と称された。
- ある休暇の折、子弟に「功成り身退くは古人の常道だ。年もそろそろ耳順に近い、隠退したいがどう思うか」と問うと、子の福嗣は「大人が徳を修め名声も官も成った今こそ、盈満を戒めるべし」と賛意を示した。後日、侍宴の場で再び骸骨を乞うたが、上は「公と共に天下を治めたいのに、この願いは望むところに反する」として荊州総管に任じた。当時は荊・并・楊・益の四大総管のみが置かれ、并・楊・益の三州は親王が統べ、荊州のみ世康に委ねられたことは当時の評判となった。世康は簡素で静かな政を行い、民に愛された。荊州で没すると、上は深く痛惜し大将軍を追贈、諡は文。
- 世康は孝行と兄弟愛に篤く、末弟の世約だけが官途に恵まれなかったため、諸弟と父の遺した田宅をすべて世約に譲ることを申し合わせた。世人はその義を称えた。
- 長子の福子は司隷別駕。次子の福嗣は内史舍人となったが後に罪により黜けられ、楊玄感の乱で衛玄に従って戦ったが城北で敗れ玄感に捕らえられた。玄感のために檄文を書かされ、その言辞は不遜であった。後に玄感を裏切って東都に戻ったが、煬帝はこれを恨み、高陽で車裂きの刑に処した。少子の福獎は通事舍人。東都で玄感との戦いで戦死した。
韋洸・韋藝・韋沖――世康の兄弟
- 世康の兄韋洸は字を世穆といい、剛毅で器量があり弓馬に長じた。周では釈褐して直寝上士となり、数々の征伐に従い開府に進み衛国縣公を賜った。隋文帝が丞相のとき叔父孝寬に従って相州で尉遲迥を撃った功で柱国となり、襄陽郡公に進封された。突厥が辺境を侵した際は皇太子(後の煬帝)が咸陽に駐屯する中、洸は原州道に出兵しこれを撃破。江陵総管、次いで安州総管を歴任。陳討伐では行軍総管となり、陳平定後は江州総管、九江を平定してさらに嶺南経略を進めた。上は書を送って慰めた。洸が広州に着くと嶺南は次々帰順、上は大いに喜び便宜従事を許した。綏撫した地は二十四州に及び、広州総管に任じられた。一年余り後、番禺の夷王仲宣が反乱を起こし洸を包囲、洸はこれに抗戦したが流れ矢に当たり没した。上柱国を追贈され綿絹一万段を賜り、諡は敬。
- 子の韋協は字を欽仁といい、学を好み雅量があった。秘書郎となり、父が広州で功を立てた際、上は協に詔書を持たせて労わせたが、着く前に父は没した。父が王事で死んだことから協は柱国を拝命、定・息・秦三州刺史を歴任し能吏として知られ、任地で没した。
- 洸の弟韋瓘は字を世恭といい、御正下大夫・儀同三司・行随州刺史を務めた(前段の韋夐の子として言及される瓘と同一人物)。
- 瓘の弟韋藝は字を世文といい、周武帝の時に軍功により上儀同・修武縣侯を賜り、左旅下大夫を経て魏郡太守となった。隋文帝が丞相のとき尉遲迥が反意を抱くと、朝廷は藝の叔父孝寬を派遣して迥に代えようとした。孝寬が鄴に近づき仮病を装って様子を伺っていた際、藝が孝寬のもとに身を投じ、そのまま孝寬に従って迥を討った。功により上大將軍に進み武威縣公に改封、修武縣侯の爵位は子の一人に別封された。文帝受禅後は魏興郡公に進封、齊州刺史に任じ、政は通達簡明で士民は懐いた。営州総管に転じた。藝は容貌が堂々としており、夷狄の朝見の際は必ず儀衛を整え盛装で臨み、独り榻を満たして座ったため蕃人は畏れて仰ぎ見ることもできなかった。一方で産業経営に励み北夷と交易して巨万の家資を築いたため、清廉を重んじる者からは批判された。任地で没し、諡は懐。
- 藝の弟韋沖は字を世沖といい、名家の子として周で衛公府礼曹参軍として仕えた。大将軍元定に従い長江を渡って陳を討ったが陳の捕虜となり、周武帝が幣帛で贖い戻した。帝はさらに沖に馬千匹を持たせて陳に使いさせ、開府賀拔華ら五十人と元定の柩を贖い戻させた。沖は弁舌に優れ使命をよく果たし、小御伯下大夫・上儀同に累進、汾州刺史に任じた。
- 隋文帝踐阼後、散騎常侍を兼ね開府に進み安固縣侯を賜った。南汾州の胡人千余人を徴発して長城を築かせたが逃亡が相次いだため、上は沖を召して対策を問い、沖は「牧守の統治が不十分であるためで、道理をもって鎮撫すれば兵を煩わせず解決できる」と献策、実際に一月余りで逃亡者を懐柔し全員を長城の労役に復帰させ、上は璽書で労った。
- 石州刺史に任じ、諸胡の心をよくつかんだ。母の喪により辞職したが、まもなく南寧州総管に起用され、柱国王長述に兵を率いて後続させた。沖が南寧に至ると各地の渠帥・首領がこぞって参謁し、上は大いに喜び詔で褒揚した。だが沖の兄の子韋伯仁が随行して人妻を掠め士卒が乱暴を働き辺民の信頼を失うと、上は大いに怒り蜀王秀に事件を調べさせた。益州長史元岩は方正な性格で沖に容赦なく処分を下し、沖は坐して免官となった。沖の弟で太子洗馬の韋世約が元岩を皇太子に讒言したが、上はこれを咎め世約は除名された。
- 後に沖は括州事を検校し、東陽の賊帥陶子定・呉州の賊帥羅慧方が乱を起こすとこれを破った。義豐縣侯に改封され泉州事を検校し営州総管に転じた。沖は容貌が優雅で寛厚な人柄で人望があり、靺鞨・契丹をよく懐柔して死力を尽くさせた。奚・霫も畏れて朝貢を続け、高麗の侵入も撃退した。文帝が豫章王暕に沖の娘を妃として迎えると、戶部尚書に召され、任地で没した。少子の韋挺が知られる。