北史卷五十四 列傳第四十二 斛律金

斛律金(字阿六敦、朔州敕勒部の出身)。匈奴伝来の兵法を用い、砂塵や地の匂いから敵情を察知したという北齊建国の元勲。沙苑の戦いで神武(高歓)に撤退を進言し危機を救った功で知られ、三代の皇帝から厚遇され一族から皇后・太子妃・公主を輩出した。子の斛律光(字明月)は当代随一の名将であったが、後年讒言により一族もろとも誅殺された。

年表(7件)

朔州敕勒部の人

  • 高祖の倍侯利は魏の道武帝の時代に内附し大羽真の位にあり孟都公の爵を賜った。祖の幡地斤は殿中尚書。父の那瑰は光禄大夫で司空を追贈された。金は敦厚で正直な性格で騎射を善くし、匈奴の法を用いて用兵し、砂塵を見て敵の馬歩の数を知り、地面の匂いを嗅いで軍の遠近を知った。初め軍主として懐朔鎮将楊鈞とともに蠕蠕の主阿那環を送ったが、環は金の狩猟の腕を見て感嘆した。破六韓拔陵が反乱を起こすと金は部衆を率いて属し、王に任じられた。金は拔陵が結局敗れると見て部衆を率いて拔陵に叛き雲州へ赴いた。魏は金を第二領人酋長とし、秋に京師に朝見し春に部落へ帰る習わしから「雁臣」と呼ばれた。のち黄瓜堆から南へ出兵しようとして杜洛周に破られた。兄の平と二人で身一つで爾朱栄のもとへ逃れ、別将となった。孝荘帝の即位後、阜城男の爵を賜り金紫光禄大夫の位を得た。神武が密かに匡復を志すと金はこの大謀を賛成した。太昌初年、汾州刺史となり侯に進んだ。神武に従い紇豆陵を河西で破った。沙苑の役で神武の陣が地の険により少し退いた際、軍は西軍に乗じられ乱れた。張華原が簿帳(点呼記録)により陣を点検したが応じる者はなかった。神武が兵を集め戦おうとすると、金は「衆は散り将は離れた、この勢いでは再び用いられない、急ぎ河東へ向かうべきだ」と言った。神武が鞍にまたがったまま動かずにいると、金は鞭で神武の馬を打ち、神武はようやく引き返した。この結果軍は大崩れとなり甲士八万を失った。侯景は軍をまとめ撤退した。西魏の力士が河橋を守り厚い甲を着けて矢も通さなかったが、賀拔仁がその向きの変わる隙をうかがい一矢で斃した。この戦いで、金の助言がなければ神武は危機に陥っていたであろう。高仲密が西に叛き周文が洛陽を攻めた際、これに従い破った。帰還後、大司馬を除せられ石城郡公に改封された。
  • 金は質朴で文字を知らなかった。もとの名は敦であったが署名が難しいことに困り「金」の字に改め書きやすくしたが、それでもなお難しく感じていた。司馬子如が「金」の字を「屋(家)」に見立てて教えたところようやく書けるようになった。神武はその古朴な人柄を重んじ、常に文襄を戒めて「お前の使う多くは漢人(の口の巧みな者)だ、この人(金)を讒言する者がいても信じるな」と言った。文襄が政務を嗣ぐと肆州刺史となった。文宣の受禅で咸陽郡王に封ぜられた。天保三年、太師に除せられた。四年、州を解かれ太師のまま晋陽に帰った。帝の車駕がその邸を訪れ六宮と諸王がみな随行し、夜遅くまで酒宴が続いた。帝は大いに喜び、金の次子豊楽を武衛大将軍とし帛五千疋を賜り「公は元勲佐命の臣であり父子ともに忠誠だ、朕は婚姻を結び永く藩屏としたい」と言った。さらに金の孫の武都に義寧公主を娶らせた。婚礼の日、帝は皇太后とともに金の邸を訪れ皇后・太子・諸王もみな従った。その待遇はこのようであった。のち蠕蠕が突厥に破られ散った際、その塞への侵犯を恐れ詔により金は白道に屯兵して備えた。多くの捕虜を得て、また虜(突厥)を討伐できる状況を上表した。文宣は金とともにこれを討った。右丞相に進み斉州の税を食んだ。左丞相に遷った。帝は晩年、乱行を重ね、かつて矛を持ち馬を走らせて金の胸を突く真似を三度したが、金は動じず立っていた。これにより物千段を賜った。
  • 孝昭帝が即位すると金の孫娘を皇太子妃に納れた。金が朝見する際には歩挽車(人力の輿)に乗ったまま階まで至ることが許された。武成の即位後は待遇がさらに厚くなり、また金の孫娘を太子妃に納れた。金がかつて人を遣わし食事を献上した際、中書舎人の李若が誤って「金が自ら来た」と奏上した。武成は昭陽殿を出て侍中高文遥に羊車を引かせ迎えさせたが、若は事が誤りであったと知り廊下に出て姿を隠した。文遥が戻って報告すると帝は若を「無能な男め、殺されて当然だ」と罵ったが罪は加えなかった。
  • 金の長子光は大将軍。次子の羨と孫の武都はいずれも開府儀同三司で各地の鎮守として出た。その他の子孫もみな侯に封ぜられ貴顕であった。一門から皇后一人、太子妃二人、公主三人を出し、その尊寵は当時比類がなかった。金はかつて光に「私は読書はしないが、古来外戚の梁冀らはみな滅びたと聞く。娘が寵愛を受ければ貴人たちが妬み、寵愛を受けなければ天子に嫌われる。我が家はただ勲功と忠誠によって富貴を得ているのであって、娘の力によるものではない」と語り、辞退が叶わないことを常に憂えていた。天統三年、年八十で薨じ、仮黄鉞・相国・太尉公を贈られ銭百万を賜り、諡は武。子の光が跡を継いだ。

長子 光(字明月、附伝)

  • 顔は馬のように長く体は虎の如く逞しく、神爽で雄傑、口数少なく騎射を善くした。初め侯景の部下であった。彭楽が高敖曹に「斛律家の小僧は三度も将にしてはならない、いずれ人の名声を奪うだろう」と語ったという。庫直として文襄に仕えた。文襄が野に出た際、双で飛来する雁を見て文襄が光に馳せて射させると二矢で両方とも落とした。のち金の西征に従い、周文帝の長史莫孝暉が陣中にいるのを、光は年十七にして馬を馳せて矢で命中させ陣中で捕虜とした。神武はすぐに都督に抜擢し永楽子に封じた。かつて文襄に従い洹橋で狩りをした際、雲間に大鳥を見て射ると首に命中し、車輪ほどの大きさで旋回しながら落ちてきた、雕(大鷲)であった。丞相属の邢子高は「これは雕を射る腕前だ」と感嘆し、当時「落雕都督」と呼ばれた。斉の受禅で西安県子に別封された。皇建元年、鉅鹿郡公に進んだ。当時樂陵王百年が皇太子となり妃を求めると、孝昭帝は光が代々醇厚謹直であることから長女を太子妃に納れた。太子太保・尚書令・司空・司徒を歴任した。河清三年、周の大司馬尉遅迥・斉公憲・庸公王雄らの十万の軍が洛陽を攻めた。光は騎兵五万を率いて馳せ参じ芒山で戦い、迥らを大破した。光は自ら王雄を射殺し、迥と憲はかろうじて逃れた。京観(戦勝記念の塚)を築いた。武成が洛陽に行幸し勲功を評価すると太尉に遷った。
  • 初め文宣の時代、周人は斉軍の西渡を常に恐れ冬になると河を守り氷を割っていたが、帝の即位後、朝政が乱れると斉人が氷を割るようになり、周軍の侵攻を恐れるようになった。光は「国家は常に関・隴を呑む志を持っていたはずなのに、今やこの有様で声色にふけるばかりだ」と憂えた。先に武成が光の次女を太子妃に納れており、天統元年、皇后となり光は大将軍に転じた。三年六月、父の喪により官を辞したが、その月のうちに詔により光と弟の羨は官に復された。秋、太保を除せられ咸陽王の爵を襲い太傅に遷った。十二月、周軍が洛陽を包囲し糧道を断った。武平元年正月、詔により光は歩騎三万を率いてこれを防ぎ激戦の末、周将宇文桀の軍を大潰させ宜陽まで進んだ。軍を返して周斉王憲らの軍も大潰させた。詔により右丞相・并州刺史を加えられた。同年冬、光はさらに歩騎五万を率い玉壁で華谷・竜門の二城を築き憲と対峙し、憲は動けなかった。二年、衆を率いて平隴など十三の鎮戍を築いた。周の柱国枹罕公普屯威・柱国韋孝寛らが平隴に迫ると、光は汾水のほとりで戦いこれを大破した。周が柱国紇幹広略を遣わして宜陽を包囲すると、光は歩騎五万を率いて赴き城下で戦い、周の建安など四つの戍を奪い千余人を捕らえて帰った。軍が鄴に着く前に勅により軍を解散するよう命じられたが、光は功のあった者にまだ慰労が行き渡っていないのに解散すれば恩沢が及ばないと考え、密かに上表し宣旨の使者を待ちながら軍をなお進めた。朝廷の使者の派遣が遅れ、軍が紫陌に近づくと光は陣を留めて使者を待った。帝は光の軍営が近づいたと聞き大いに不快に思い、急ぎ舎人を遣わし光を召し入れてから宣労し兵を解散させた。左丞相を拝し清河郡公に別封された。
  • 光がかつて朝堂で簾を垂れて座っていた際、それと知らずに祖珽が馬に乗ってその前を通り過ぎた。光は怒って「この者はよくもこんなことを」と人に語った。のち珽が内省で高慢な声で話しているのを光が耳にしてまた怒った。珽は光の憤りを知り、その従者に賄賂を贈り「あなた様が権を用いてから、相王(光)は毎夜膝を抱いて『盲人が権を用いれば国は必ず破れる』と歎いておられる」と告げさせた。珽の下役褚士達は夢で人が戸に寄りかかり詩を授けるのを見た。「九升八合の粟、角闘は定めて真ならず、津中の水を堰き止めて、誰のために留めるのか」というものであった。これを珽に告げると、珽は占って「角闘とは斛の字、津の水を堰くとは何を留めるかで律の字となり、合わせて『斛律』となる。真ならずとは、斛律が私に対して不実であるということだ」と言った。士達がさらに夢の様子を語ると、それは珽の亡父の姿であったという。珽はこれにより光を恐れるようになった。また穆提婆が光の庶出の娘を娶ろうとしたが許されなかった。帝が提婆に晋陽の田を賜った際、光は朝廷で「この田は神武帝以来、常に穀物を植え馬を飼い、寇難に備えてきたものです。これを賜えば軍務に支障が出るのではないでしょうか」と言った。帝はさらに鄴の清風園を提婆に賃貸として賜った。これにより官には野菜がなくなり人から借金して買い、三百万銭の借金を負い、貸した者が訴え出た。光は「この菜園を提婆に賜れば彼一家だけが足りる、賜らなければ百官が足りる」と言い、これにより祖珽と穆提婆は積年の怨みを募らせた。周の将韋孝寛は光を恐れ、間諜を使い鄴に「百斗が天に飛び上がり、明月(光の字)が長安を照らす」という謡言を流させた。またこうも言った、「高山は押さずとも自ずと崩れ、槲樹は支えずとも自ずと立つ」。珽はこれを読み解いて「盲老公(自分自身を指す隠語か)が背中に大斧を担ぎ、饒舌な老母(陸令萱を指す)は語れない」という意味だと言い、子供らに路上で歌わせた。提婆はこれを聞き母に告げた。令萱は「饒舌」が自分を指すもの、「盲老公」が祖珽を指すものと考え、二人は共謀して謡言をもって帝に「斛律氏は代々大将であり、明月(光)の声望は関西に轟き、豊楽(羨)の威は突厥にまで及び、娘は皇后、息子は公主を娶っている。この謡言は畏るべきものです」と告げた。帝は韓長鸞に問うたが、長鸞は不可と考えたため事は一旦収まった。光はさらに人に「今、軍人はみな下着すらないのに、後宮の内参には一度に数万疋を賜り、府庫はますます空になっている、これはどういう道理か」と語った。これを聞いた恩賜を受けた者たちは「天子が自らお与えになったものだ、相王に何の関係があるか」と言った。珽はさらに上表して謁見を求め、帝は庫車に乗せて呼び入れさせ、珽は人払いを求め何洪珍だけがそばにいた。帝は「以前あなたの上表を得てすぐに実行しようと思ったが、長鸞がそんな道理はないと言うので未だ決行していない」と言った。珽が答える前に洪珍が進み出て「もし本当にその意がないならそれでよいですが、すでにその意があるなら決行しないでは、万一事が漏れたらどうしますか」と言った。帝は洪珍の言葉に納得したが、なお躊躇していた。珽は光の孫武都の妾の兄顔玄に光が謀反を企てていると告げさせ、また曹魏祖に上奏させて「帝の上将の星が盛んになっている、誅殺しなければ災禍がある」と言わせた。先に天狗(流星)が西に流れ、占いでは秦の地(咸陽)に当たるとされていた。また太廟と光宅(光の邸)にいずれも血が見られたという。さらに三日前からネズミが昼間から光の寝室に現れ、いつも食べ物を投げ与えていたが、ある朝三匹のネズミが一斉に死んだ。床下から黒豚のような物が二頭、地から出て走り去りその穴は油のように滑らかであった。大蛇もたびたび現れた。屋根の梁からは弾丸が落ちるような音がした。また門の横木が自然に燃え、砧石が独りでに動いたという。折しも丞相府佐の封士譲が密かに「光は先に西討から帰った際、勅により兵を解散させるはずが、光は軍を帝京に迫らせ不軌を企てたが果たせなかった。家には弩や甲を蔵し奴僮は千を数え、常に豊楽(羨)や武都と密かに往来している。早く手を打たねば事態は測り知れません」と上奏した。帝は何洪珍に「人の心とは実に鋭いものだ、私は以前から謀反を疑っていたが果たしてその通りだった」と言った。帝は臆病な性格で変事を恐れ、洪珍を急ぎ遣わして祖珽を召し告げさせた。また光を追っても命に従わないことを恐れ、珽は駿馬一頭を賜り翌日東山への遊覧に招き、光が謝礼に来たところを捕らえるよう請うた。帝はその通りにした。光が馬に乗ろうとした時、目眩がした。到着すると涼風堂に招き入れられ、劉桃枝が背後から突き飛ばしたが倒れなかった。光は「桃枝はいつもこんなことをする、私は国家に背いてはいない」と言った。桃枝は力士三人とともに弓弦で光の首を絞め、絞め殺した。年五十八であった。血が地に流れ、その跡は削っても消えなかった。かくして詔が下り光の謀反として一族を滅ぼした。
  • 二千石郎の邢祖信に光の家財の帳簿を管理させた。珽が都省で押収品について問うと、祖信は「弓十五張、宴射用の矢百本、貝殻の柄の刀七口、賜った矛二張を得ました」と答えた。珽がさらに厳しく「他に何を得たか」と問うと、祖信は「棗の枝二十束を得ました、奴僕が人と争った際、理非を問わず杖百に処するためのものです」と答えた。珽は大いに恥じ声を落として「朝廷はすでに重罰を科した、郎中がなぜそれを弁護するのか」と言った。祖信が出ると、人々はその剛直さを称えた。祖信は慨然として「良き宰相さえ死んだのだ、私が余生を惜しむことがあろうか」と言った。祖信が若い頃、父の遜が李庶の属官であった際、庶を訪ね「しばらくあなたに会いに来ました、これでお別れを告げます」と言ったところ、庶の父の諧は庶を杖打ってその無礼を謝したという逸話がある。
  • 光は家にあっても厳粛で、子弟に対しては君臣のように接した。極めて貴顕であったが節倹を旨とし声色を慎み財利を求めず贈答も一切断った。門に賓客はなく朝士との交わりも稀で政事に関わろうとしなかった。会議のたびに常に最後に発言したが、その言葉はいつも理にかなっていた。上表文を作る際は人に筆を執らせ口述させ、簡潔で実質を旨とした。用兵には匈奴の占卜法を用い吉凶はことごとく的中した。軍営が定まらないうちは決して幕舎に入らず、時に一日中座らないこともあった。自らも甲冑を脱がず常に士卒の先頭に立った。罪ある者には大杖で背を打つのみで、みだりに人を殺すことはなかった。それゆえ衆はみな争って光のために死を賭す覚悟であった。宜陽の役では周人に「七年間捕らえていた我が方の人を返せ、さもなくばその十倍を取るぞ」と告げると、周人はすぐに返した。西境で定誇などの諸城を築いた際、馬上で鞭で指し示すだけで取るべき地はすべてその通りになったが、それを功績として誇ることはなかった。城壁の築造にあたっては人を鞭打つこともあり、その厳格さで知られた。若くして従軍して以来、規律を乱したことはなく、隣国の敵からも深く畏怖された。罪もはっきりしないまま一朝にして族滅されたことは、朝野がみな惜しんだ。周武帝は光の死を聞くとその領内に恩赦を行った。のち鄴に入ると追って上柱国・崇国公を贈り、詔書を指して「この人がもし生きていたら、朕がどうして鄴に至れただろうか」と言った。
  • 長子の武都は特進・開府儀同三司・梁袞二州刺史の位にあったが、任地ではもっぱら収奪に励んでいた。光の死後、州へ使者を遣わして斬らせた。末子の鐘はまだ数歳であったため死を免れ、周朝で崇国公の爵を襲封した。隋の開皇中、車騎将軍として卒した。

羨(字豐樂、附伝)

  • 若くして機敏で騎射に優れた。河清三年、都督・幽州刺史となった。その年、突厥十余万が州境に侵入すると羨は諸将を総括して防いだ。突厥は軍容の整然たるを望み見て戦わずに使者を送り帰順を求めた。天統元年五月、突厥可汗が朝貢を願う使者を送り、以後歳時を絶やさなかったのは羨の功であった。詔により行台僕射を加えられた。羨はしばしば虜が辺塞を侵すため、庫推の戍から東は海に至るまで二千余里にわたり、要害の地には山を削って城を築き谷を断って砦を設け、五十余箇所の戍と警邏を配置した。また高梁水を導いて北は易水に合わせ東は潞水に会流させて田を灌漑し、公私ともに利益を得た。州では馬二千疋、部曲三千を養い辺境に備えたため、突厥はこれを「南面可汗」と呼んだ。四年、行台尚書令を遣わされ高城県侯に別封された。
  • 羨は数代の帝に仕え謹直と称され、極めて栄寵を受けながらも自ら誇ることはなかった。一門が貴盛を極めていることを深く憂え、武平元年、辞退の上表をして解職を願い出たが許されなかった。その年秋、荊山郡王に進んだ。羨は禍を恐れ人を速足の騾馬で鄴に迎えに行かせ、音信を絶やさないようにした。ある時二日連続で鄴からの使者が来なかったため家人は憂え、また枷鎖を身に着ける夢を見て豊楽(羨)に早く突厥へ逃げるよう勧めたが羨は従わなかった。その夢を占って「枷は官が加わること、鎖は鎖鎖(連なって)吉利なこと」と解釈した。光が誅殺されると勅により中領軍賀拔伏恩ら十余人が駅馬で羨を捕らえに向かい、領軍大将軍鮮于桃枝・洛州行台僕射独孤永業もまた定州の騎兵を発して続いて進んだ。伏恩らが到着すると門番が羨に「使者は甲を着け馬は汗をかいている、城門を閉じるべきです」と告げたが、羨は「勅使をどうして疑って拒めようか」と言い、自ら出迎えたところ捕らえられ、長史の查事で殺された。妻に「太后に申し上げよ、臣ら兄弟の死は自ら承知の上のことだと」と言い残した。処刑に臨んで「これほどの富貴、娘は皇后、公主は家に満ち、常に三百の兵を使っていたのに、なぜ敗れずにいられようか」と歎じた。五子とともに殺されたが、十五歳以下の者は赦された。羨は誅殺される前、突然州にいる子五、六人に首に鎖をつけ驢馬に乗せて城を出させ、一族が泣いて閤まで見送り日暮れに帰った。吏人は皆これを不思議に思った。行燕郡守の馬嗣明という道術に通じた人物が羨に敬われており、密かに問うと「厭勝の呪いが必要でしょう」と答えたという。数日後にこの変事が起こった。
  • 羨と光はいずれも騎射に長けていた。若い頃狩猟に出た際、父の金が子孫を集めて射を見物し、涙を流して「明月(光)と豊楽(羨)の弓の腕前は私に及ばず、孫たちはさらに明月・豊楽にも及ばない、世は衰えたものだ」と言った。毎日狩りに出させ、帰ると獲物を検分した。光の獲物は少なくても必ず亀(急所)や脇腹に命中していたが、羨は獲物が多くても急所を外していた。光はいつも賞を受けたが羨は時に杖打たれた。人がその理由を尋ねると、金は「明月は必ず背中に矢を当てて仕留める、豊楽はどこにでも手当たり次第に射る。数は多くとも兄には遠く及ばない」と答え、聞く者はその言葉に感服した。
  • 金の兄の平は若くして弓馬に長けた。神武の挙兵に都督として従った。皇建初年、定陽郡公に封ぜられた。のち青州刺史となり、卒して太尉を贈られた。

史論

斉神武は晋陽という戎馬の地を拠点に覇業を築こうとし、兵を練り旅(軍)を訓練し遠く朝権を制した。鄴都の機務にも深く心を配った。孫騰・高隆之・司馬子如らはいずれも清廉に道を守ることができず、乱世を治めることよりも財貨を貪り欲の深みを満たすことに励んだ。かつて蕭何が関中を鎮め、荀彧が許都に留まったのとは、なんと異なることか。文襄が輔政に入り驕縦を責め崔暹を厚遇してその剛直な弾劾を奮わせたからこそ、そうでなければ君子たちは早々に見限っていたであろう。子如はわずかに神武と親しく重んじられたにすぎず、情誼は狎れ合いに近く、義は草創の功によるものでもなく、恩は寵愛によって結ばれたもので、勲徳も特に聞こえないままに台輔の地位に至った。消難は斉を去り周に帰したが、それは国に殉じる義からではなく去就を繰り返しただけであり、晩年にはさらに陳へ奔った。一度でも甚だしいのに、どうして再びそのようなことができようか。膺之の風格は重んじるに足り、幼之の清廉な自立ぶりも称するに足る。竇泰・尉景・婁昭・厙狄幹・韓軌らはいずれも外戚や近親として、風雲に乗じた挙兵に連なり、寵愛によらず功によって地位を築き、翼を並べ鱗に付いて佐命の首として重んじられた。婁定遠は凡庸な才でありながら趙郡王の忠正に乗じ、朝廷の害を除き佞臣を逐う志を持つように見せかけながら奸凶を信じ入れ、かえってその乱に巻き込まれた。ついに小人が毒をほしいままにし賢戚が誅されるという、政を害し時を損なうことこれより甚だしいものはなかった。俗に「利は智を昏くす」というが、婁定遠はまさに智者ではなかったということであろう。段榮は姻戚の重みにより時運に乗じ、その功業もまた称するに足る。段韶は七代の君主を輔け一門の基業を大いに興し、常に外に出ては閫外を任され、あるいは留台の職に処された。猜忌の朝廷にあっても長寿を全うし、辺境に警戒が絶えぬ中で斉の上将として重んじられたのは、どうしてただの偶然であろうか。志において功を誇らず名を実に違えず、威権をもって物を制することも智謀をもって時に迎合することもなく、覆餗(大任に堪えず失敗すること)を求めても得られなかったであろう。『礼記』に「性に率うをこれ道と謂う」とあるが、これはまさにその効験であろう。斛律金は神武の撥乱の初めに王業を助け、忠誠の至りをもってこの大功を成したからこそ、長寿と高位を全うすることができた。しかし満ちれば欠けるという戒めをその身では免れても、その効果は子孫にまで及ばず、ついに一族誅滅に至った。すでに権威の重きに身を置いたことが、道家の忌むところに触れたのであろう。光は上将の子として沈毅な資質を備え、戦の指揮にも将としての智略を密かに備え、敵に臨めば勝ちを制し変幻自在であった。関・河が分断されて以来四紀(四十八年)近く、高氏の覇業の時期に周が草創されたその時に当たり、軍を出して討伐に赴くたびに敵の勢いをたびたび挫いた。大寧年間以降、東の隣国(斉)が次第に弱まる一方、関西(周)はまず巴蜀を収め、さらに江陵を滅ぼし、瓶を建てるような勢いで武を用い併呑の壮志を成そうとしていた。光は戦のたびに全軍に誓い辺境を防ぎ、戦えば陣を崩さずに済む敵はなく、攻めれば落とせない城はほとんどなかった。斉はかつて拘原の師(敵を拘束する軍)を持つに至り、秦(周)は関を開く策を再び用いることができなかった。しかし世が乱れ讒言が勝る中、震主の威を偽って誣告され、暗愚な主君が艱難な時勢にありながら自ら藩籬を毀した。かつて李牧が趙の将であったとき、北は胡冠を討ち西は秦軍を退けたが、郭開の讒言により牧は死に趙は滅んだ。光を誅すべしと議した者たちも、あるいは秦(の間諜)の反間の計であったのではないか。なぜ同じ手口で同じ滅亡を招いたのであろうか。内には諸将の心を離反させ、外には強敵に讎を滅ぼす機会を与えた。ああ、後世の君子は深く戒めとすべきであろう。