北史卷五十 列傳第三十八 山偉

経歴

  • 山偉、字は仲才、河南洛陽の人。先祖は代に居った。祖の強は容貌に優れ身長八尺五寸、弓を彎ること五石、奏事中散として献文帝の方山での狩猟に従い一矢で二狐を射止めた逸話を持ち内行長に至った。父の幼之は金明太守。偉は文史に涉り、孝明帝初、御史中尉元匡に兼侍御史として召され、就任五日で正会に当たり、妻の従叔にあたる羽林隊主が殿門で直長を鞭打った事件を弾劾して匡に評価された。国子助教から員外郎・廷尉評に昇進。
  • 天下無事の時代、代来の人々は仕進が難しかったが、六鎮・隴西の反乱を機に領軍元叉が代来の寒門を伝詔に用いようとした際、偉は上表で叉の徳を称え、侍中安豐王延明・黄門郎元順の推薦を得て叉に尚書二千石郎、後に士郎・修起居注に用いられた。僕射元順の推薦で諫議大夫。
  • 爾朱栄の朝士殺害の際は守直の職にあり難を免れ、孝荘帝の入宮後は給事黄門侍郎に除せられた。以前、一緒に行動していた儀曹郎袁升ら四人が河陰の変で害されると予言した尼僧の逸話が伝わる。
  • 著作郎を兼ね、節閔帝の即位後は秘書監・著作。爾朱兆の入洛で国史典書高法顯が史書を密かに埋めて保全した際、偉は自らの功と称して爵賞を求め、世隆に取り入って東阿県伯に封ぜられたが、法顯は男爵にとどまった。侍中に進み、孝静帝初、衛大将軍・中書令・監起居を経て再び著作を兼ね官にて卒去。驃騎大将軍・開府儀同三司・都督・幽州刺史を追贈され諡は文貞公。
  • 北魏の国史は鄧彦海・崔浩・高允・李彪・崔光らが相継いで撰録してきたが、綦俊・偉らは上党王天穆・爾朱世隆に阿って国書は代人(鮮卑系)のみが編纂すべきと主張し他者に委ねさせず、崔鴻の死後偉の代まで二十年ほど記録がほとんど作られず後人が拠るものがなくなった、これが偉の由来する史の欠落であるという。外面は温厚だが内実は矯激で名を争い、宇文忠之らと代人の党を組み時人に嫌われた。文史を愛好する情熱は老いて篤くなった。弟の早世後、その孤児を二十余年養い恩義に篤かったが、産業を営まず死後は宅を売って葬儀を賄い妻子は流浪した。長子の昂が爵を襲いだ。