経歴
- 乙弗朗、字は通照、先祖は東部の人。代々部落大人で魏に従い代に移り、後に上楽に居を構えた。朗は若くして俠気があり郷里で騎射に長けると称された。孝荘末、北辺の騒乱を避け并・肆の間に居を移した。爾朱栄に重んじられ連勺子に封ぜられ、賀拔嶽に隸属し爾朱天光の西討に従い嶽の左廂都督となった。孝武帝の斉神武への防衛戦では閣内大都督を授かり、帝の西入に際して軍司として先駆けとなり、長安に至って長安県公に封ぜられた。岐州刺史のとき卒去。
- 朗はかねて積冷の病を患い、周文帝が三石東生散を賜り朗に服させ朝夕見舞いを絶やさぬなど重んじられた。臨終には「河・洛が清平になり京県に還るのを見られぬのが恨みだ」とだけ語り、三度手で床を叩いて息絶えた。太尉を追贈された。子の鳳は宮伯・開府儀同三司の位にあったが周閔帝と共に宇文護を謀り殺された。
史論
- 朱瑞は義に向かいながら誅殺され、叱列延慶は順に背いて禍に遭った。それぞれの運命であろう。斛斯椿は幾度も危機に陥りながら最後は栄達を得た、これも人の謀りごとの及ぶところではない。徴は博学強記で夔・襄(古の楽官)を自ら任じ雅楽を絶やさず新たにした。加えて仕える主への忠を尽くし直言を貫いたのは周の忠烈というべきか。賈顕智・樊子鵠・侯深らは乱世に奔走しながらも自ら夷戮を招いた。その遺した事跡を見れば、覇政(斉)には罪を得たが魏にあっては得失は測りがたい。賀拔允兄弟は勇略をもって競う時代に投じ功を立てたが、初め爾朱氏に仕え中ごろ高氏と結び、太昌の後は帝図(西魏)に帰したことを見れば節を守った士とは言い難い。ただ勝は江左(梁)に翅を垂れて魏室の危亡を憂い、関西に奮翼して梁朝の厚遇に感じ入るなど長者の風があり、ついに栄寵を保ったのも理由があろう。嶽は二千の疲弊した兵で三秦の強敵に対抗し智勇を奮って凶賊を平らげ、遠方まで威を畏れ義を慕わせたのも一時の盛事であった。しかし勲功の高さゆえに速やかに禍を招き無防備のまま殺されたのは惜しむべきことである。昔、陳渉は事を始めながら成し得ず漢がこれによって創業した。賀拔嶽も功成りて早く殞し、周文帝はこれにより基を開いた。廃されるものがなければどうして興るものがあろう、まことにその通りである。侯莫陳悦は残虐を恣にし死は踵を旋らせるほど早かった、その滅亡を見れば自ら招いたものである。念賢は始めと終わりを全うし群公の敬を得た。梁覧は最後に禍を招き節義を全うできなかった。雷紹は雲雷の秋に馳騖し、毛遐兄弟は経綸の日に力を尽くし、乙弗朗は擾乱の中を転じながらついに帰順を全うした、美しいことである。