経歴
- 雷紹、字は道宗、武川鎮の人。九歳で孤児となり膂力に優れ騎射を善くした。十八歳で鎮府に仕え洛陽に使いした際、京都の礼儀の美に感銘を受け「辺備は武を尚び富貴を図るのみと思っていたが、文学こそ身の宝であった。学ばずに生きるのは穴居も同然」と語り、逃げ帰って母に師事を求めた。数年で『孝経』『論語』に通じ、「人の行いで孝より大きなものはない」の一節を読んで巻を投げ出し嘆き、故郷に帰って親を養った。母の喪では哀毀骨立し名を知られた。鎮将に召され鎮佐を補任され、後に賀拔嶽の征討に従い長史となった。嶽は大事あるごとに紹に諮った。斉神武の挙兵に嶽が下風に立つことを恥じると紹は孝武帝を長安へ迎え順を以て逆を討つよう勧め嶽もこれを本意とした。後に嶽が諸将の言に従い関中で日和見を図ろうとすると紹は献策が用いられないことを知り辺境の州を求めて功を立てんとし、嶽は「君の補佐の力は大州を統べるに足る」と京兆太守に任じた。清廉な政治で人望を得たが、在郡一年余りで嶽が害された。以前、嶽が侯莫陳悦としばしば宴語していたのを見て「公はどうか用心を」と忠告したが嶽は従わず果たして難に遭った。紹は郡を捨てて嶽の軍に馳せ参じ寇洛らと共に周文帝を迎えた。悦の平定後、功により大都督・涼州刺史を授かったが東討に兵を残すことを願い単騎で赴任、刺史李叔仁が州に拠り抗命したため紹は帰還した。永熙三年、渭州刺史・昌国伯。かつて紹が嶽の長史、周文が嶽の左丞であった縁から丞相となった周文に厚遇された。州で卒去。
- 紹は施しを好み俸禄・賜物は皆親族知友に分け与え、死の日には葬儀の費用もなかった。仏道を篤く信じ、子に「我が郷里の葬法は犬馬を殺すが亡者には益がない、時服で棺に納め質素に行え」と遺命した。長安に葬られ、天子は素服で弔問し太尉を追贈、東園秘器を賜った。子の渙。