経歴
- 念賢、字は蓋盧、金城枹罕の人。父の求就は大家の子として武川鎮を守り、そのまま居ついた。賢は容貌に優れ経史に通じた。学中で読書していた頃、人相見に群がる生徒たちを尻目に「男児の死生富貴はみな天にある、どうして急いで相を見るのか」と笑って語った逸話がある。父の喪では孝を尽くした。王衛可環を破った功で別将に除せられ、さらに軍功で屯留県伯に封ぜられた。爾朱栄に従い洛陽に入り尚書右僕射・東道行台を兼ね平恩県公に進爵。永熙中、孝武帝の中軍北向大都督となり安定郡公に進み侍中・開府儀同三司を加えられた。大統初、太尉を拝し秦州刺史、さらに太傅を加え後部鼓吹を賜った。大統三年(537年)、太師・都督・河州刺史・大将軍に転じ、後に朝に還り録尚書事を兼ねた。広陵王欣・扶風王季らと共に正直の侍中を務めた。行殿の完成時、名を求められ賢が「円極」と名付けると帝は「まさに朕の意にかなう」と喜んだ。河橋の役で力戦せず先に退いたため名声はやや衰えた。大統五年、秦州刺史となり州で薨去、諡は昭定。諸公にとって父の世代にあたり周文帝以下皆敬った。子の華は温厚な長者風があり開府儀同三司・合州刺史に至った。