北史卷四十九 列傳第三十七 賀拔允
神武尖山の人、字可泥。武川鎮の武人一族の出身で爾朱栄・斉神武に仕え、北鎮の乱以来各地を転戦した。神武の入洛後は王に進爵し太尉・侍中を加えられたが、天平元年(534年)、神武暗殺を謀ったとの告発により幽閉され餓死した。
年表(5件)
- 正光末(頃)525年父度抜、鉄勒との戦いで戦没
- 建義初528年寿陽県侯に封ぜられる
- 永安中(528~)530年公に進爵
- 中興初531年司徒・尚書令を歴任
- 天平元年534年神武暗殺を謀ったとの告発により楼上に幽閉され餓死、享年四十八
経歴と最期
- 賀拔允、字は可泥、神武尖山の人。魏氏と同じく陰山を出自とし、祖の如回は魏初に大莫弗、祖父の爾頭は驍勇で良家として武川鎮を守り、獻文帝の時に龍城県男を賜り本鎮軍主となった。父の度抜は襲爵し本鎮軍主。正光末、沃野の破六韓抜陵が反乱すると懐朔鎮将楊鈞は度抜を統軍に召したが、王衛可環が武川・懐朔を陥落させ度抜父子は賊に捕らわれた。度抜は周徳皇帝(宇文泰の父)と謀り豪傑を集め可環を殺害したが、朝廷の賞を待たず鉄勒との戦いで戦没、孝昌中に肆州刺史を追贈された。允は弓馬に長け胆略があり、父の死後兄弟は恒州刺史広陽王深に投じ、深の敗北後は爾朱栄に帰した。父子兄弟ともに武芸で知られ栄に厚遇され、建義初、寿陽県侯に封ぜられ永安中に公に進爵。魏長広王の擁立時、開府儀同三司・燕郡王・兼侍中となり蠕蠕への使者を務めた。晋陽に還る途上、斉神武の非凡さを知り早くから結びつき、神武も北土の名族として厚遇し信都で共に大策を定めた。中興初、司徒・尚書令を歴任、神武の入洛後は王に進爵し太尉・侍中を加えられた。孝武帝は神武を忌み、允の弟嶽が関中に重兵を擁することから密かに往来させ允の動静を疑っていた。嶽の死後、允は嶽の兄勝の心腹として重用された。神武は旧誼を重んじ全面的に保護した。天平元年(534年)、神武との狩猟の際、允が弓を引いて神武を狙ったとの告発により楼上に幽閉され餓死させられた、享年四十八。神武は自ら哭して太保を追贈した。
- 允の三子(世文・世楽・難陀)は興和末、斉神武が諸子と共に学ばせた。武定中、定州に居住させ田宅を賜った。
勝(賀拔允弟)――若年から爾朱榮への出仕
- 勝、字は破胡、若くして志操があり左右への馳射に優れ北辺随一の膽略と称された。王衛可瑰が懐朔を囲んだ際、父の度抜に従い守備し、援軍要請のため夜に囲みを潰して脱出、朔州の臨淮王彧に急を告げ出師の約束を得た。再び包囲を突破し「賀拔破胡と官軍が来た」と叫んで入城させた。武川偵察に赴いたが既に陥落しており懐朔に馳せ戻ったがそこも陥落、父子は賊に捕らわれた。
- のち可瑰を殺害する際に活躍し朔州へ使いしたが度抜は既に病没していた。刺史費穆に才略を認められ厚遇され兵事を任された。広陽王深が破六韓の賊に囲まれた際に召され軍主となり統軍を拝した。僕射元纂に隸属し恒州を鎮めたが鮮于河胡の乱で兄允・弟嶽と離散、勝は肆州に投じ允・嶽は爾朱栄に投じた。栄と肆州刺史尉慶賓の対立で嶽が肆州を攻略した際、栄は勝を得て「兄弟を得れば天下は定まる」と喜び、勝兄弟三人は栄に仕えた。
勝――并州・河北の攻防と莊帝擁立への貢献
- 杜洛周が幽・定を、葛栄が冀・瀛を拠点とする中、栄は勝に并陘鎮守を求め承諾させ大馬・銀鞍を賜った。栄の入洛後、定策の功により易陽県伯に封ぜられた。元天穆の葛栄北征に従い大破、杜洛周の残党韓楼が薊城に拠ると大都督として中山を鎮め、楼はその威名を畏れ南寇しなかった。元顥の洛陽侵入に際し栄の招集で爾朱兆と硤石を渡り顥軍を大破、その子冠受を捕らえ先駆けて洛陽に入り真定県公に進爵。栄の死後、田怡らと栄第に赴いた際、まだ宮門が厳重でなかったため攻撃を主張する怡らを「天子は既に大事を行った、必ず奇策があるはず、我らの兵は多くない」と制止した。世隆の夜逃げの際は河橋まで従ったが、臣下は君に仇なさずとして本隊に戻り、荘帝は大いに喜んだ。仲遠が東郡に迫ると勝は驃騎大将軍・東征都督として鄭先護と討伐に赴いたが先護に疑われ営外に置かれ休息できぬまま仲遠軍と戦い不利となり降伏。爾朱氏と共に節閔帝擁立を謀った功で右衛将軍を拝した。
勝――韓陵の戦いと兆からの赦免
- 爾朱氏が斉神武討伐を図った際、勝は爾朱度律に従ったが度律と兆は不和であり、勝は敵前での内輪もめを危惧して斛斯椿と兆の陣営で調停に赴いたが逆に捕らえられた。度律は恐れて軍を引いた。兆は勝を斬ろうとし「可環を殺した罪、天柱(栄)の死後に世隆らと来ず東征した罪」を数えたが、勝は「可環を誅したのは功であり罪ではない。天柱の死は君が臣を誅したもの、私は王には負けても朝廷には負けない。今日の事は生死とも王次第だが、賊に近く内輪もめするのは古来滅亡の道」と抗弁し、兆は勝を赦した。逃れて度律を追いついた後、斉神武の勢力が強まり兆・天光・仲遠・度律ら十余万が韓陵に布陣、兆は鉄騎で神武軍を突破したが度律は兆の驍勇に嫉妬し進軍を渋り、勝は度律らの不和に乗じ配下を率いて斉神武に降伏、度律軍が先に退いたため全軍が大敗した。
勝――荊州経略と梁への亡命
- 太昌初、領軍将軍・侍中を経て、孝武帝が斉神武を図るため弟の嶽の勢力を頼み都督・荊州刺史・驃騎大将軍・開府儀同三司・南道大行台・尚書左僕射とした。勝は各地で戦勝し沔北は荒廃した。梁武帝は子の雍州刺史蕭続に「賀拔勝は北の驍将、争ってはならぬ」と戒め続は城を守り出なかった。尚書令に進み琅邪郡公に爵を進めた。
- 斉神武と孝武帝の対立が深まり勝は洛陽への出兵を命じられたが広州で躊躇するうちに帝は既に関中入りしていた。南陽に還り楊休之を関中へ遣わし、長史元穎に州事を代行させ自らは関中へ西進しようとしたが浙陽で太保・録尚書事を授かった際、潼関の陥落と毛鴻賓の捕縛を聞き荊州に還った。州人鄧誕が元穎を捕らえ斉軍を引き入れ、行台侯景・大都督高敖曹の攻撃で勝は敗れ流矢を受けて梁に奔った。南で三年、梁武帝の厚遇を受けたが北討を求めても実現せず帰還を願い許された。梁武帝は南苑で自ら見送り、以後勝は南を向く鳥獣を射ないことで懐徳の意を示した。長安に至り謝罪すると魏帝は手を握って涙し太師を授けた。周文帝(宇文泰)に従い小関で竇泰を捕らえ弘農を攻め、河北を下し孫晏を捕らえ、沙苑で東魏軍を破り河上まで追撃、李弼と別に汾・絳を平定した。河橋の戦いでも東魏軍を大破し降卒を収めて還った。
- 斉神武が玉壁を攻めた際、勝は前軍大都督として周文に従い神武の旗鼓を見つけ三千の敢死隊を募ってこれに突入、神武と遭遇し「賀六渾(神武の小字)、賀拔破胡が必ずお前を殺す」と叱咤し数里追撃、あわや刃が届くところまで迫ったが馬が流矢に当たり倒れ、副騎が到着した時には神武は既に逃れていた。勝は「今日、私が弓矢を持たなかったのは天命だ」と嘆いた。
- この年、東に残っていた勝の諸子はみな神武に害された。勝は憤りから病を発し大統十年(544年)に薨去。臨終に周文への手紙で「万里を杖策して帰順し、賊を掃討せんと望んだが不幸にして志を果たせなかった。死後も魂は賊庭に飛び恩に報いたい」と記し、周文は涙した。勝は喪乱の中に育ちながら武芸に秀で、走る馬から鳥を射て十中五六、周文は「諸将は敵を前に動揺するが賀拔公だけは平然としている、真の勇者だ」と評した。重任に就いてからは学問を愛し文儒を招いて義理を論じ、義を重んじ財を軽んじ、死の日には随身の兵仗と書千巻のみが残った。
- 関中入り当初、年齢と地位の高さから周文に拝礼しなかったが後に悔い、周文も内心それを気にしていた。昆明池での宴で双鳧を射た逸話で恩礼が篤くなった。太宰・録尚書事を追贈され諡は貞献。明帝二年(558年)、文帝廟庭に配享された。子がなく弟嶽の子仲華が嗣ぎ開府儀同三司・琅邪公を襲爵、大象末(579年頃)に江陵総管となった。
嶽――若年と關中平定の功
- 嶽、字は阿斗泥、若くして大志を抱き施しを好み士を愛した。太学生を経て左右への馳射に優れ驍果絶倫、兵書を読まずとも兵法に暗合し識者は皆これを異とした。父兄と共に懐朔救援に赴き、賊の王衛可環に矢を放ち腕に命中させ賊を驚かせた。広陽王深の帳内軍主として兄勝と共に恒州を守り、州の陥落後は爾朱栄に投じ都督となった。栄の帳下の計議に多く与し栄の意にかなった。栄が元天穆と朝廷匡正を謀った際、嶽は「非常の事は非常の人を待つ。将軍の士馬は精強で威望は重い。まず義旗を挙げれば何事も成し遂げられよう」と進言し栄・天穆に「丈夫の論」と称賛された。
- 孝明帝の急死後、栄が挙兵し洛陽に赴くと嶽は甲卒二千を率いて先駆けとなった。河陰で栄が朝士を殺し帝位を狙おうとした際、嶽は諫めて栄を翻意させ孝荘帝を擁立させた。定策の功で樊城郷男を賜り、栄に従い葛栄を破り元顥を平定して左光禄大夫・武衛将軍に累遷。万俟醜奴が関中で僭称した際、栄は嶽の兄勝に「醜奴は強敵、嶽が無功なら罪を問われ、成功しても讒言されよう」と語り爾朱氏の一族を元帥に立て嶽を副とすることを願い、天光を大都督・雍州刺史とし嶽を左廂大都督、侯莫陳悦を右廂大都督としてともに天光の副とした。潼関に至り天光が難色を示すと嶽は渭北で賊を撃破し軍容を振るわせた。
嶽――關中平定の完遂と隴右経営
- 醜奴が岐州を囲み尉遅菩薩・万俟行醜を武功に向かわせると、天光は嶽に千騎を率いて援軍させた。嶽は少数の騎兵で菩薩と渭水を隔てて交渉、挑発に応じて弓で使者を射殺し、翌日には奇策で兵を次第に集結させ賊を欺き渭水を渡らせて追撃、伏兵で大破し菩薩を捕らえ渭北の歩卒万余を降した。醜奴は岐州を捨て安定に逃走。天光は嶽と合流し秋の涼しさを待つと欺いて醜奴を油断させ、賊が分散して営農する隙に元進の柵を急襲し陥落させ、醜奴を平涼の長坑で捕らえた。高平城で蕭宝寅も捕らえた。
- 万俟道洛が牽屯に退くとこれを攻め、道洛は隴に敗走し略陽の王慶雲に投じた。天光と嶽は永洛城でこれを破り慶雲・道洛を捕らえ余党を坑にした。三秦・河・渭・瓜・涼・鄯州が帰順し、夏州の宿勤明達の反乱も鎮めた。功は天光を上回り樊城県伯に進爵、涇州刺史・公爵を経て天光の入洛後は雍州事を代行、普泰初、岐州刺史・清水郡公・侍中・後部鼓吹を加えられ開府儀同三司兼尚書左僕射・隴右行台となり高平に留まった。隴中の不順な土人を侯莫陳悦と共に討平。天光が斉神武に対抗しようとし嶽に計を問うと「関中を鎮め根本を固めるべき」と答えたが天光は従わず敗れ、嶽は隴を下り雍に赴き天光の弟顕寿を捕らえて斉神武に応じた。
嶽――孝武帝との連携と侯莫陳悅による謀殺
- 孝武帝の即位後、関中大行台を加えられた。永熙二年(533年)、孝武帝は密かに嶽に斉神武討伐を図らせ血書を寄せた。嶽はこれを恐れ辺境に赴き平涼の西界に布陣、原州での牧馬を名目に自衛の構えを取った。費也頭の万俟受洛幹、鉄勒の斛律沙門、解抜弥俄突、紇豆陵伊利らが款附し、秦・南秦・河・渭四州刺史も平涼に会して嶽の指揮に従った。ただ霊州刺史曹泥だけは応じず斉神武と通じ、神武は左丞翟嵩を関中に遣わし嶽と侯莫陳悦を離間させた。永熙三年(534年)、嶽は悦を高平に召し曹泥討伐を図らせ悦を先鋒としたが、悦は神武の指示を受けて密かに嶽を謀ろうとした。嶽は油断してこれに気づかず、悦は嶽を陣中に誘い、腹痛を装って席を立ち婿の元洪景に嶽を幕中で斬らせた。朝野は皆これを痛惜した。侍中・太傅・録尚書事・都督関中二十州諸軍事・大将軍・雍州刺史を追贈され諡は武荘。翟嵩が神武に復命すると神武は「私の病を除いてくれたのは卿だ、忘れることはない」と喜んだ。嶽の部下は遺骸を収めて雍州北の石安原に王の礼で葬った。子の緯が嗣ぎ開府儀同三司を拝し、周の保定中(561〜565年)、嶽の旧徳により霍国公に爵を進め周文帝の娘を娶った。