北史卷四十二 列傳第三十 王肅

琅邪臨沂の人、字恭懿。南斉の秘書丞であったが父兄を誅殺され太和十七年(493年)に北魏へ亡命、孝文帝に厚く信任され尚書令にまで昇った。喪礼儀礼に精通し北魏の朝儀整備に尽力した学者政治家。

年表(5件)

出自と入魏

  • 王肅、字は恭懿、琅邪臨沂の人。父の王奐は斉の雍州刺史で、『南史』に伝がある。王肅は若くして聡明・弁舌に優れ、経史を渉猟して大志を抱いていた。斉に仕えて秘書丞となったが、父奐と兄弟はみな斉の武帝に誅殺された。太和十七年(493年)、王肅は建鄴より北魏に亡命した。
  • 孝文帝が鄴に行幸中にその到来を聞き、心を開いて迎え引見した。王肅の弁は鋭く義理にかない、礼を失わなかったため、帝は深く哀れみを覚えた。話は治国の道に及び、王肅の陳説は帝の意にかない、帝は席を移して日が傾くのも忘れるほど語り合った。王肅は蕭斉(南朝斉)の危亡の兆しを説き、帝の南征の意志はいっそう強まった。帝の礼遇は日ごとに厚くなり、旧臣もこれに口を挟めなかった。人払いをして夜半まで語ることもあった。王肅も忠誠を尽くし隠すところがなく、自ら諸葛孔明が劉備に遇されたのになぞらえた。まもなく輔国・大将軍長史に任じられ開陽伯の爵を賜ったが、王肅は伯爵を固辞し、許された。

征討と孝文帝の信任

  • 帝は王肅に斉の義陽討伐を命じ、勇士の募集と論功行賞を許した。従軍者は六品以下ならまず登用して後で上聞し、投降者は五品以下ならまず優遇するよう定めた。王肅は義陽で連戦連勝し、持節・都督・豫州刺史・揚州大中正となり、善政で名声を得た。まもなく召還され、帝は自ら手詔を送って慰労した。また蕭衍(王奐の仇にあたる蕭斉側の人物、荼毒の世を憂える文言)への喪礼について、有司に礼制を定めさせるよう詔した。
  • 二十年(496年)七月、久しい旱で帝が食を断って謹慎し百官が参内した。帝が崇虚楼にいたとき、舎人を遣わして王肅に問うたところ、王肅は「堯の水害・湯の旱魃も自然の定めであり、聖人の助けを要するもの。国家の備蓄は九年の変に備えるためにある。すでに郊外は雨に潤い、京城内だけがやや少ないだけ。民はまだ食に窮していないのに、陛下が三日も食を断てば臣下は不安でならない」と答えた。帝は「数朝食していないが感応がないのは、朕の誠意がまだ至らぬためだ。志を貫き、死んでもやめない」と返した。その夜、大雨が降った。斉将裴叔業を破った功により鎮南将軍に進み都督四州諸軍事を加えられ、汝陽県子に封じられたが、王肅はしばしば表を上げて固辞し、詔により鼓吹一部を加賜された。
  • 先に斉が王肅の父奐を捕らえた際、奐の司馬黄瑤起が奐を攻め殺した。二十二年(498年)、漢陽平定に際し黄瑤起は輔国将軍として降り、特に詔して王肅に引き渡され、哀情を晴らさせた。

孝文帝没後の執政

  • 孝文帝が崩じ、遺詔により王肅は尚書令となり、咸陽王元禧らと共に宰輔となって魯陽に霊柩を迎えに赴いた。王肅は元禧と謀議を共にし、魯陽から京洛までの喪の諸事は王肅に委ねられ、その勤労は旧臣以上であった。元禧兄弟はみな敬愛し、上下は「和輯」と称えたが、任城王元澄だけは、王肅が遠方より帰参した身でありながら自分の上位にあることを不満とし、「朝廷が王肅を我が上に置くのはまだしも、従叔の広陵王(宗室の長老)が内外の要職を歴任していながら、なぜ一朝にして王肅がその上に立つのか」と人に語った。王肅はこれを聞くと常に自ら身を引いた。まもなく元澄に「謀叛」と弾劾されたが、まもなく釈明された。詔により王肅は陳留長公主(もと劉昶の子婦で彭城公主)を娶ることとなり、銭二十万・帛三千疋を賜った。王肅は「四年にわたり百官の考課が怠られている、旧例により能否を検討すべき」と上奏し、許された。
  • 裴叔業が寿春を挙げて帰順すると、王肅は使持節・都督江西諸軍事を拝し、彭城王元勰と共に歩騎十万を率いて赴いた。斉の豫州刺史蕭懿は小峴に、交州刺史李叔獻は合肥に屯し、寿春を狙っていたが、王肅は軍を進めて大破し、李叔獻を捕え蕭懿を敗走させた。京師に還ると宣武帝が東堂で慰労し、開府儀同三司に進み昌国県侯に封ぜられた。まもなく散騎常侍・都督淮南諸軍事・揚州刺史となる。王肅は辺境で心を尽くして人心を得、遠近の者が市のように帰服した。清廉で施しを好み、声色を絶ち、終始廉潔で家に余財がなかった。ただし性格はやや軽率で功名を誇り、他人を軽んじる面があり、孝文帝もしばしばこれを諌めた。

薨去と評価

  • 景明二年(501年)、寿春で薨去、享年三十八。宣武帝は哀悼し、東園秘器・朝服一襲・銭三十万・帛一千疋・布五百疋・蝋三百斤を賜い、卜筮による墓所の遠近まで問い、専ら侍御史一人を遣わして喪事を監護させた。また詔して「杜預は首陽に葬られ、司空李沖は覆舟山に托した、この地は二代の九原(賢臣の墓所)である。故揚州刺史王肅は忠義二世に結び、英知は李沖・杜預に匹敵する。生前の願いどおり京陵に葬るのが本意にかなう。杜預・李沖両墳の間に葬り、霊が相通じるようにせよ」と命じた。侍中・司空公を追贈。有司は諡を「匡公」とすべきと奏したが、詔により「宣簡」と諡された。明帝の初め、王肅のために碑銘を建てるよう詔した。
  • 西晋末の喪乱以来礼楽は崩壊し、孝文帝が制度を改めたとはいえ、その間はなお粗略で十分に洗練されていなかった。王肅は旧儀に精通し、虚心に委任を受け、朝廷の儀礼はことごとく王肅の手による。子の紹が襲爵した。

子孫(紹・康・誦・衍・翊)

  • 紹(字三帰)は中書侍郎、卒して徐州刺史を追贈された。子の遷が襲爵、斉の受禅により爵位は例により降格された。
  • 紹の弟理は、孝静帝の初め帰朝を許され著作佐郎となった。紹は王肅の前妻謝氏の生んだ子である。王肅の臨終に際し、謝氏は初めて娘と紹を連れて寿春に至った。宣武帝はその娘を夫人として納れ、明帝もまた紹の娘を嬪として納れた。
  • 王肅の弟康(字文政)は書史に通じ、わずかに兄の風があった。宣武帝の初め、兄の子の誦・翊・衍らを連れて北魏に入り、中書侍郎を拝した。幽州刺史で卒し、征虜将軍・徐州刺史を追贈された。
  • 誦(字国章、王肅の長兄融の子)は学識と文才があり、神気清俊で風流秀麗であった。散騎常侍・光禄大夫・右将軍・幽州刺史・長兼秘書監・給事黄門侍郎を歴任。明帝が崩じ霊太后が幼主を立てた際の大赦で、誦が詔書を宣読し、抑揚の調子と秀でた風采で百官が感嘆した。孝荘帝の初め、河陰の変で殺され、尚書左僕射・司空公を追贈され、諡は文宣。子の孝康は尚書郎中。孝康の弟俊賦は清雅で文才に富み、斉の文襄王の中外府祭酒となった。
  • 誦の弟衍(字文舒)は名望・器量・技芸ともに誦に次いだ。光禄大夫・廷尉卿・揚州刺史・大中正・度支七兵二尚書・太常卿を歴任、散騎常侍・西兗州刺史として出た。爾朱仲遠に捕らえられたが、名望のため害されず、牛に乗せられて従軍させられ、久しくして洛陽に釈放された。孝静帝の初め侍中。卒し、東園秘器を賜り、尚書令・司徒公を追贈、諡は文献。衍は旧友との交わりに篤く、西兗州で仲遠に害された旧友竺某の妻子が飢寒に苦しんだ際、自邸に置いて長年扶養し、世にその篤厚を称えられた。
  • 翊(字士遊、王肅の次兄深の子)は風采秀でて学問文才を好んだ。中書侍郎。栄利に鋭敏で元叉と姻戚を結んだ。済州刺史として清静な政績を挙げ、入朝して散騎常侍・金紫光禄大夫・国子祭酒を領した。卒し、司空公・徐州刺史を追贈された。子の琛は武定中、儀同・開府記室参軍となった。