北史卷三十六 列傳第二十四 端

字仁直、本名沙陀。北魏末、東魏に組せず西魏の周文帝(宇文泰)に帰順した薛氏の一族。剛直な性格で人事選考に清廉を貫き、宇文泰から「端」の名を賜るなど深く信任された重臣。西魏恭帝の廃位に際しては拙速な即位を諫め、宇文護の廃立にも異論を述べて左遷されるなど節を曲げなかった。

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西魏への帰属

  • 端、字は仁直。本名は沙陀。志操があり、父の喪に遭い合礼をもって喪に服した。弟の裕と共に精励して篤学し、人事に交わらなかった。十七歳で司空高乾邕に参軍として辟召され平陰男の爵を賜った。端は天下が乱れていると見て官を辞して郷里に帰った。
  • 魏の孝武帝の西遷後、周文帝は大都督薛崇礼に龍門を守らせ、端を同行させた。崇礼はまもなく城を失い東魏に降った。東魏は行台薛修義を遣わし乙幹貴を督して河を西に渡らせ楊氏壁を占拠させた。端は宗族・家僮とともに先に壁の中にいたが、薛修義は兵に端らを東へ渡らせようとした。まさに渡河しようとした時、日暮れを機に端は密かに宗族・家僮と共に反した。薛修義も騎兵を遣わし追撃したが、端は戦いながら馳せ、石城柵に入り難を逃れた。柵には元々百家がおり、端は共に力を合わせて固守した。
  • 東魏はさらに賀蘭懿・南汾州刺史薛琰達を楊氏壁の守りに遣わした。端は部下を率い村人を招き、多くの奇兵を配置して臨んだ。賀蘭懿らは大軍がいると疑い東へ逃げ、船で渡ろうとして数千人が溺死した。端はその武器を収め再び楊氏壁に戻った。周文帝は南汾州刺史蘇景恕を遣わし鎮守させ、降書で慰問し端を闕に召して大丞相府戸曹参軍とした。竇泰を捕らえ弘農を復し沙苑で戦うなど功を重ね伯爵に進んだ。のち交城県伯に改封され吏部郎中に累進した。

北周での官歴と剛直な人柄

  • 端は性格が強直で、奏請の際は権貴を憚らなかった。周文帝はこれを嘉し「端」の名を賜り、名と実が相応じることを願った。人事の選考に当たる際も賢能を優先し、貴顕の子弟でも才が劣り行いが薄い者は決して抜擢しなかった。常に周文帝に「官職を設けるのは政務のためであり、適任者でなければ空位にしておく方がよい」と進言し、周文帝はこれを深く是とした。大統十六年、東討の軍で柱国李弼が別道元帥となり有能な属官を選ぼうとして数日決まらなかった際、周文帝は李弼に「あなたのために長史を得ようと考えていた、薛端に勝る者はいない」と語り、李弼も「真の才である」と応じ端を派遣した。尚書右丞に転じ選事を掌り続けた。
  • 梁主蕭詧が瑪瑙鐘を献じた際、周文帝は丞郎らに「摴蒱(賭博)で盧(最高の目)を出せた者にこの鐘を与えよう」と言ったが数人試みても出せなかった。端の番になると「この鐘が貴いのではなく、ただ誠を示したいだけだ」と言って投げると五子すべて黒(盧)が出た。周文帝は大いに喜び即座に鐘を賜った。
  • 魏帝(西魏恭帝)が廃された際、近臣の中に周文帝の即位を勧める者がいたため、周文帝は端を召してこれを告げた。端は「三方(東魏・南朝・北周)がまだ統一されていないのに急いで名号を正せば天下に度量の狭さを示すことになる、まず僭偽を平定してから民の推戴に応じるべき」と進言した。周文帝は端の背を撫でて「私を成すのは卿だ、卿の心が私と同じなら、身も私と異ならないはずだ」と言い、着ていた冠帯・袍袴を脱いで端に賜った。吏部尚書に進み宇文氏の姓を賜った。端は長く選曹(人事)にあり人物を見抜く目に優れ、その抜擢した人材は皆その才にふさわしかった。六官の制が定められると軍司馬を拝し、侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司を加えられ侯爵に進んだ。

北周孝閔帝以降と晩年

  • 周の孝閔帝の即位後、戸部中大夫に再遷し公爵に進んだ。晋公宇文護が帝の廃位を図った際、群臣を集めて議論させたが、端は意見を異にする点を具さに述べたため護は喜ばず、蔡州刺史に出された。寛恵な政治を行い人吏に愛された。基州刺史に転じたが、基州は梁・陳に接し鎮撫を要する地であり、総管史寧が司馬梁栄を遣わし赴任を催促した。蔡州の父老は千余人が榮に訴え端の留任を請うたほどであった。基州に至ってまもなく没した。遺言で薄葬を命じ、府州からの贈遺は受け取らせなかった。本官に大将軍を加え文城郡公に進封され、諡は質。子の胄が跡を継いだ。