北史卷三十四 列傳第二十二 遊道

姓は宋、燉煌の名族宋繇の玄孫。剛直な性格で終始不正の摘発を厭わず「悪を見て討つ、宋遊道」と評された監察官。孝荘帝期から東魏・北斉にかけて尚書左丞・御史中尉を歴任し権門を憚らず弾劾を重ねたが、その苛烈さのため何度も讒言を受け、下獄と復帰を繰り返した。

年表(3件)

出仕と剛直な官歴

  • 遊道は若くして父に従い任地にいたが、父の死後、吏人からの餞別を一切受け取らず、母に孝を尽くした。叔父とは別居していたが、叔父が奴僕に謀反を偽り訴えられた際、遊道は奴僕を誘い出して真相を明らかにし処刑した。
  • 魏の広陽王元深の北伐に際し鎧曹として召され、元深が定州刺史になると府佐として仕えた。広陽王が葛栄に殺された後、元徽がその降伏を誣告し妻子を捕らえたが、遊道は訴えてこれを解放させ、広陽王の子と共に喪を迎えに行き改葬した。中尉酈善長はその気節を称え殿中侍御史に引き立てた。台中では「悪を見て討つ、宋遊道」と評された。
  • 孝荘帝の即位後、左兵中軍を除された。尚書令臨淮王元彧に叱責された際、遊道は「下官は王の怒りには謝るが、王の理には謝らない」と言い放ち、即日闕に上書して、徐州刺史元孚の羽林兵の私的な留用に関する不正を告発した。臨淮王が私的な圧力をかけてきたことも詳細に述べ、忠臣は貴賤を問わないと主張した。帝はこれを嘉し労った。元彧も自ら尚書令の辞任を申し出た。帝は台郎の解任のみを許した。のち司州中従事に転じた。
  • 鄴への帰還途中、大雨で行旅が河橋に滞留した際、遊道は幕下で朝夕宴歌を楽しみ、行者に「どんな時でも歌わないなど大馬鹿だ」と応じた。のち斉神武(高歓)が太原から朝見に来た際、その評判を聞き対面し、別駕に遷らせた。神武は「高歓の手ずからの酒を飲む者は大丈夫だ、卿はまさにふさわしい」と杯を挙げた。晋陽への帰還時、神武は「朝廷の貴人の中に卿を憎む者がいると聞くが、案ぜず励め」と手を執り、遊道を中尉に任じようとしたが文襄(高澄)が反対し、代わりに崔暹を御史中尉、遊道を尚書左丞とした。文襄は崔暹と遊道に「一人が南台、一人が北省を掌れば、天下は粛然となるだろう」と語った。

尚書左丞としての糾弾と受難

  • 遊道は省に入り、太師咸陽王坦・太保孫騰・司徒高隆之・司空侯景・録尚書元弼・尚書令司馬子如らの官による貸金銀の取り立てを弾劾し、権豪を憚らなかった。尚書の違法数百条も奏駁し、省中の悪吏を鞭打つなど厳格に取り締まり、尚書省に門標を立て出入り時刻を記録させる制度を始めた。
  • 魏の安平王が事件で逃亡した際、章武二王ら近親者が徴収された。都官郎中畢義雲が担当したが、遊道はその処置に廷尉での科罪を主張。高隆之がこれに反対し、逆に遊道が畢義雲に対し厳しく非難したと誣告し、拷問により偽証を作り上げ、左僕射襄城王旭・尚書鄭述祖らとともに上奏して遊道の死罪を求めた。上奏文の要旨は、遊道の出自が卑しいこと、粗暴な言動、他者への嫌疑をかけて公私混同した行いなどを非難し、「口では夷斉を称しながら心は盗蹠のごとし」と激しく糾弾するものだった。
  • 朝士の多くは遊道の助からないことを危ぶんだが、文襄は高隆之への抗弁を聞き「まことに鯁直な大剛の悪人だ」と評した。楊遵彦は「犬に例えれば、吠えるのを本分とするのに何度も吠えたからと殺せば、以後吠える犬がいなくなる」と諫めた。詔により廷尉に付され、遊道は除名処分となった。文襄は元景康を遣わし「早く并州へ私に従っていれば殺されずに済んだのに」と伝えた。遊道は晋陽に至り大行台吏部、のち太原公開府諮議となった。平陽公が中尉となると、諮議のまま書侍御史を領し、司徒左長史も兼ねた。
  • 文襄が黄門郎温子昇を元瑾の謀反への関与を疑い獄に繋ぎ餓死させ、屍を路傍に棄てた際、遊道はこれを収めて葬った。文襄は「以前、京師の貴人らに卿が朋党に偏ると書き送ったが、卿こそ本当に節義を重んじる人物だ、屍を葬ることを誰が咎めよう」と語った。まもなく御史中尉に除された。東莱王道習が選考不正を犯した際、遊道と旧交のある道習に令史が便宜を図ったため文襄が怒り、遊道を糾問した。判決は「性格は獷悍で是非を専断し、些細な過失をあげつらう。かつて郎中蘭景雲との争いで挙げた十条も虚妄だった。今また道習と朝典を軽んじた。法官の身でこれを犯すのは看過できない」というものだったが、獄吏が枷を外そうとした際、遊道は「これは令公の命によるもの、勝手に外してはならない」と拒み、文襄はこれを聞いて赦免した。遊道の志は変わらなかった。

北斉における晩年

  • 天保元年(550年)、太府卿を兼ね、少府の主司による横領を検分し巨額の不正を摘発したが、逆に誣告されて下獄した。まもなく釈放されると帰宅せず直ちに官署に戻って政務を執った。死に際して薄葬を遺言し、碑を立てず贈諡も求めないよう命じたが、瓜州刺史を贈られた。武平年間、子の士素が長く機密に関わったことにより儀同三司を重ねて贈られ、諡は貞恵とされた。
  • 剛直な性格で悪を憎むこと仇のようであり、罪を見れば必ず極刑を求めた。糾弾を好み陰私を探ることを好んだため、獄を扱う際は捶撻が厳しかった。兗州刺史李子貞が州で貪暴を働いた際にこれを摘発したが、文襄は李子貞の建義の功に免じて容赦しようとした。遊道は陳元康が李子貞を内々に助けていると疑い密かに告げ口したため、文襄は怒って李子貞を都堂で撲殺させた。兗州の人々は遊道のために生祠を建て「忠清君」と題した。しかし朝士の多くはこの陰湿な糾弾ぶりを卑しんだ。
  • 一方で交遊を重んじ約束を守った。役所では厳格だったが、私的には賄賂を多く受け取り、親戚の困窮者には分け与え、その子女の縁組も世話し、葬儀には自ら哀悼して尽力した。司州の綱紀として、昌楽・西河二王と不仲であったが、二王の薨去後は常にその遺族を助けた。頓丘の李奨とは一面識で死をともにする交わりを結んだ。李奨が河南尹となった際、遊道を中正に招き厚遇したが、李奨が元顥に与して殺されると、遊道は訴えて雪冤し、贈官を求め自らの考課を回して功を上げさせた。
  • また劉廞と交わり、その弟の劉粹に徐州で趙紹を殺させたが、劉廞が誅されると劉粹も徐州で叛乱を起こし、討伐され首は鄴市に梟された。孫騰の指図により賄賂を得た者だけが遺体の収容を許される状況となったが、遊道は司州中従事として家人に劉粹の親族を装わせ訴えさせ、律により許可を得て収骸させた。孫騰は怒ったが遊道は理をもって対抗した。李奨の二子構・訓が困窮していた際には、三人の富者の贖罪を求める形で百五十万銭を得てすべて二人に与えた。世間はこう評した。「遊道は猿の顔、陸操は蝌蚪の形、見た目が醜くとも情がないとは言えない」。
  • 構が戯れに従弟と偽って対面させた際、遊道は猿のような容貌に驚いたが、のち和解した。遊道の死後、構は定州長史となったが、遊道の三男士遜が誣告に加担し、構は獄中で遊道を祭って訴えた。士遜は夢の中で遊道に叱責され、驚いて謝ったが十日後に死んだ。
  • 遊道は子の士素・士約・士慎らに「私は法の執行が厳しすぎて度々困難に遭った。この性分ゆえのことで、子孫は見習うべきではない」と戒めた。子らはその言葉に従い柔和謙遜であった。
  • 士素は物静かで才識があり中書舎人に遷った。趙彦深に見出され内省に参与し機密に関わった。中書・黄門侍郎を歴任し儀同三司・散騎常侍に遷り、長く黄門侍郎を兼ねた。機要の職に二十年近くあり、慎み深く謙虚で趙彦深に重んじられた。祖珽が朝政を握った際、趙彦深を地方に出したが、中書侍郎李徳林の進言により士素は黄門侍郎に留任し機密に関わり続けた。士約もまた重んじられ尚書左丞となった。