経歴
- 張湛、字は子然、また仲玄。燉煌深泉の人。魏の執金吾張恭の九代の孫で、河西の名族。祖父の質は涼で金城太守を務め、父の顕は遠大な見識があり武昭王李暠に功曹として用いられ器量を認められた。
- 若くして涼州で名を知られ、学を好み文章に長け、志が高かった。沮渠蒙遜に仕え兵部尚書を務めた。涼州平定後、寧遠将軍を拝し南蒲男の爵を賜った。司徒崔浩は彼を知り礼遇した。崔浩は『易』に注釈を施した際、「燉煌の張湛・金城の宗欽・武威の段承根の三人は皆儒者で俊才、西州で称された。私が『易』を論じる度に『左氏伝』の卦解で彼らに勧めて解注させたのでこの注ができた」と序に記している。
- 京師に来てからは家が貧しかったが操を崩さず、崔浩がしばしば衣食を給し中書侍郎に推挙しようとしたが、張湛は崔浩がいずれ失脚すると見て固辞した。崔浩に贈る詩には箴規の言葉が多かった。崔浩も敬意を示しその志を推し賞した。崔浩の誅殺後、張湛は恐れてすべての贈答文を焼き捨て、門を閉ざして交際を絶ち、天寿を全うした。
銑(張湛の兄)――経歴
- 兄の銑、字は懐義。閑雅で才幹があり、沮渠蒙遜に仕え建昌令を務めた。至孝な性格で、母の喪では哀毀すること尋常でなく、服喪期間が明けても粗食を改めなかった。崔浩は彼を張湛同様に礼遇した。征西参軍で没した。
通(銑の孫)――経歴
- 懐義の孫の通、字は彦綽。経史に博く通じ、世事には関わらなかった。頓丘の李彪はその学識を敬愛し親交を結んだ。李彪が用いられると中書令李沖に推薦し、李沖は召見して重んじた。太和年間、中書博士・中書侍郎に召され、永平年間には汾州刺史に召されたが、いずれも赴任せず家で終えた。
- 通の四子、徹・麟・儉・鳳はみな家学を伝え世に知られた。徹の子方明は侍中・衛尉卿となり西平県公に封じられた。子の敢之が爵を襲い太中大夫・楽陵郡守となった。麟、字は嘉応、広平太守。儉、字は元慎、涼州刺史。鳳、字は孔鸞、国子博士・散騎常侍。『五経異同評』十巻を著し儒者に称された。