北史卷三十四 列傳第二十二 高閭
字閻士、漁陽雍奴の人。若くして崔浩に才を見出され「閭」の名を与えられた学者官僚。文成帝崩御後の乙渾誅殺に際し大政に参与し、太和年間には柔然への長城築城策を上表するなど北辺防衛策を献じた。孝文帝の洛陽遷都には強く反対したが容れられず、致仕後は手厚い礼遇を受けた。文章の才は高允と並び「二高」と称された。
前半生と学問
- 高閭、字は閻士。漁陽雍奴の人。五世祖の原は晋の安北将軍・上谷太守・関中侯で、薊に碑がある。祖父の雅は若くして令名があり州別駕となった。父の洪、字は季願、陳留王従事中郎を務めた。高閭が貴顕になると幽州刺史・固安貞子を贈られた。
- 高閭は早くに父を失い、若くして学を好み経史に博く通じ、下筆すれば文章をなした。若い頃は車子(荷車引き)として平城に租を運び、崔浩を訪ねて名刺を出した。崔浩は語り合ってその才を奇とし、中書監への謝表を書かせた。翌日崔浩が租車の列を通り過ぎる際に高閭を呼び止めたので、車子たちは皆驚いた。高閭は元の名を「驢」といったが、崔浩がこれを「閭」と改め字も付けたことで名を知られるようになった。
- 和平末年、中書侍郎となった。文成帝崩御後、乙渾が権を専らにし内外が危惧する中、文明太后が臨朝して乙渾を誅し、高閭を中書令の高允とともに禁中に引き入れ大政に参決させ、安楽子の爵を賜った。
- 鎮南大将軍尉元とともに徐州に南征し、功により侯に爵位を進めた。献文帝即位後、崇光宮に遷る際、高閭は『至徳頌』を上表した。
- 高允は高閭の文章が豊かであることを認め自らの後任に推挙し、献文帝に知られ政事に参与するようになった。
- 永明の初め、中書令・給事中となり機密を委ねられた。文明太后は高閭を非常に重んじ、詔・令・書・檄・碑銘・讃頌は皆彼の文とした。
- 太和三年、淮北討伐に際して高閭は諫言し四つの疑念を挙げ速やかな撤兵を求めたが、文明太后は「六軍の進撃は朽木を摧くようなもの、何を恐れるのか」と退けた。尚書・中書監に遷る。淮南王他が旧例により俸禄を断つよう求めた際、高閭は「俸禄を絶てば貪者は姦を恣にし清廉な者は自らを保てなくなる」と表し、詔はこれに従った。
「築長城」の上表と朝議での議論
- 孝文帝が王公以下を皇信堂に召し忠と佞の弁別を論じさせた際、高閭は「佞者は知を飾って事に処し、忠者は心を発して道に附く。玉と石のように明らかに区別できる」と述べた。帝は「玉石は同体で名が異なり、忠佞は名が異なって理は同じ」と切り返し、両者の間で応酬があった。帝は高閭の答えを善しとした。
- のち高閭は「国を治める道の要は五つ。文徳・武功・法度・防固・刑賞である」として、北方の柔然に対する防衛策を長文で上表した。要旨は次の通り。
- 柔然は野戦を得意とし攻城を苦手とするため、その長所を奪えば大きな脅威にはならない。
- 六鎮の北に長城を築けば、一時の労はあっても永逸の益がある。要害には小城を築き弓弩を配置し、敵が来れば守り、掠奪できなければ引き返すしかない状況を作る。
- 近州の武勇四万人と京師二万人、計六万人を武士とし、三軍に分けて弓射・刀楯・騎槊をそれぞれ二万人ずつ習わせ、諸葛亮の八陣の法を参考に訓練する。
- 六鎮は東西千里に及ぶが、十万人を一月動員すれば築城可能であり、軍糧一月分で足りるとし、労苦に見合う恩恵として、遊防の苦しみを免れる・放牧の安全・防備の省力化・輸送の恒常化など五つの利点を挙げた。
- 孝文帝は「改めて対面で論じよう」と応じた。また高閭に柔然への国書を作らせたが、柔然に喪があったにもかかわらず書に凶事への言及がなかったことを帝に咎められた。高閭は「柔然主が親和に篤くとも、その子はしばしば辺境を犯しており、弔うべきでないと考えた」と釈明したが、帝は「父を敬えば子が喜び、君を敬えば臣が喜ぶ」として叱責し、高閭は免冠して謝罪した。帝はさらに柔然の使者牟提の忠実さを書中で明らかにするよう命じた。
- 冬至の大饗で孝文帝が太后の前で舞い群臣も舞った際、高閭は孝の徳を称える言葉を奏上し、帝は大いに喜んだ。また皇信堂での議論では刑と法の区別、政と事の区別について問答があり、高閭は「刑制の会(決まり)を軌物斉衆するを法といい、制約に違反し憲に致すを刑という」「政は上の行うところ、事は下の綜べるところ」と答えた。
- のち詔により太常とともに雅楽を整えた。広陵王師を兼ね、鎮南将軍・相州刺史に出た。律令制定の功により布帛粟牛馬などを賜った。洛陽遷都に際して高閭は十の損失を挙げて諫め、やむを得ないならば鄴への遷都を求めたが、帝はこれを不快に思った。
晩年
- 雍州刺史曹武が襄陽を拠点に降を請うた際、帝は懸瓠に親征しようとした。高閭は洛陽が草創期であること、曹武が人質を送らず誠意がないことを諫めたが容れられず、果たして曹武は虚偽であり諸将は成果なく帰還した。
- 帝が石済に還幸した際、高閭は行宮に参朝し帝と議論を交わした。高閭は少数の兵での親征の限界や、司馬相如が封禅できなかったことを悔いた故事を引いて封禅の礼を勧めたが、帝は荊揚がまだ統一されていないとして応じなかった。
- 帝が鄴に至ると、しばしばその邸館を訪れ褒詔を下した。高閭が本州刺史への転出を求め続けたため、帝は平北将軍に降号したうえで幽州刺史に転じさせた。高閭は諸州の従事廃止・参軍設置の不便を上表したが帝は喜ばなかった。致仕を求めても許されず、太常卿に召され何度も辞退の表を上げたが聞き入れられなかった。漢陽への南討の際も回師を求めたが容れられなかった。漢陽平定後、璽書を賜り高閭は謝意の表を上げた。
- 宣武帝の即位後、高閭は重ねて遜位を表し、優詔により光禄大夫・金章紫綬を授かった。吏部尚書邢巒が家に赴いて拝授した。引見の際、東堂で肴羞を賜り大政について諮問された。先朝の儒臣であることを理由に致仕を願い出、帝は涙を流した。優詔で安車・几杖・輿馬・繒彩・衣服・布帛など豊厚な賜り物があり、百官が餞別を送った様子は古の二疏を送るがごとくであった。北芒に登り『望闕表』を奉じて恋慕の誠を示した。
- 家で没し、諡は文貞。
- 文章を好み、文集は四十巻。その文才は高允に並び、後世に「二高」と称され当時の人々に尊敬された。剛直果敢に直諫し、私室では言葉少なであったが、朝廷の広衆の中では議論が湧き上がり誰も敵わなかった。孝文帝はその文雅の美をたびたび優遇した。しかし貪欲で偏狭、驕慢な面もあった。中書にあった若い頃は諸博士を罵ることを好み、学生百余人から求められれば賄賂を受けないことはなかった。老いて二州の刺史となってからは廉倹自謹となり良牧との誉れを得た。子の元昌が爵を襲い、遼西・博陵二郡太守となった。弟の高悦は篤志好学で高閭にも劣らぬ資質があったが早世した。