北史卷三十四 列傳第二十二 明根

字志遠、游雅の従祖弟。若くして苦難の中で独学し、太武帝に中書学生として抜擢された趙郡の名族の一人。文成帝から孝文帝までの五代にわたり五十余年仕えた清廉な官僚で、晩年は三老五更の礼に列せられるなど最高の礼遇を受けた。子の肇(字伯始)は孝文帝から名を賜り、剛直な性格で元叉の専横に抗した忠臣として知られる。

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経歴

  • 明根、字は志遠。游雅の従祖弟にあたる。祖父の鱓は慕容熙の下で楽浪太守、父の幼は馮跋の下で仮の廣平太守を務めた。
  • 明根は幼くして乱に遭い、櫟陽の王氏の奴僕となった。羊飼いをしながら漿壺(水差し)で路傍に字を書いて学んだ。長安鎮将の竇瑾がこれを見て素性を知り、游雅に告げた。游雅は人を遣って彼を贖い、書を教えた。
  • 十六歳で游雅のもとを辞して郷里に帰り、白渠の岸に窟を掘って読書に励んだ。游雅の推薦により、太武帝は彼を中書学生に抜擢した。
  • 寡欲な性格で経史に通じた。文成帝即位後、都曹主書となり、その慎み深さを帝にたびたび称賛された。
  • 員外散騎常侍・安楽侯を仮され劉宋への使者となった。宋の孝武帝はその長者ぶりを称え、送迎の礼を通常より厚くした。
  • 献文帝の時代、東兗州刺史に累進し新泰侯に封じられ、清平な政治を行った。孝文帝の時代には儀曹長となり、清廉で謹厳、称職と評された。儀曹尚書を歴任し散騎常侍を加えられた。大鴻臚卿・河南王幹の師に遷り、尚書はそのままとし、例により侯から伯に降格された。また律令の制定に参与し、しばしば直言を進めた。
  • 七十を過ぎ致仕を願い出て、優詔でこれを許された。参内して謝辞を述べる際、悲しみを抑えられなかった。帝も別れを惜しんで涙し、青紗単衣・委貌冠・被褥・錦袍などを賜った。同年、司徒の尉元を三老、明根を五更として辟雍で礼を行い、歩挽(輿)一乗を賜り、上卿の禄を給し、太官が毎月食事を第宅に届けた。律令制定の功により布帛などを賜った。本郡に帰る際には安車・両馬・幄帳・被褥を賜った。
  • 帝が鄴に行幸した際、明根は行宮に参朝し、優詔で穀帛を賜り、太官に珍味を届けさせ、邸宅を新造させた。国家の大事があれば璽書で意見を求められた。旧疾が起これば手詔で見舞い、太医が薬を送った。
  • 家で没し、宣武帝は厚く弔祭を行い、光禄大夫・金章紫綬を贈り、諡は靖侯。
  • 内外の官を五十余年務め、仁和と礼譲をもって人に接し、当時の評判は高かった。孝文帝の初め、明根は高閭とともに儒老の学業により特に礼遇され、公私の出入りに常に付き従った。しかし高閭は才筆によりしばしば明根を軽んじた。世に「高・游」と称された。

肇(明根の子)――経歴

  • 肇、字は伯始。孝文帝より賜った名。経史に博く通じた。
  • 孝文帝の初め、内秘書侍御中散となり、典命中大夫に進んだ。帝の南伐に際し諫めの表を上げたが容れられなかった。まもなく太子中庶子に遷った。
  • 謙虚で真面目、文雅の才を認められた。父の老いを理由に扶侍を願い出て解官を求めたところ、帝は禄を受けたまま孝養できるよう配慮し、本州(南安王楨の鎮北府長史、魏郡太守を兼ねる)に出した。王が薨じたのち高陽王雍の鎮北府長史に転じ太守はそのまま。二王を佐けて清簡な政治を行い声績を上げた。
  • 父の喪により解任。のち黄門侍郎に復し侍中を兼ね、畿内大使として賞罰を明らかにした。太府・廷尉卿を歴任し御史中尉を兼ね、黄門はそのまま。儒者らしく名教を重んじ、法の執行は厳正であったが、断獄では寛恕を旨とした。
  • 尚書令の高肇(宣武帝の舅)は百官に畏れられていたが、肇と名が同じであることを嫌い改名させようとした。肇は孝文帝から賜った名であるとして固辞し、高肇はこれを深く恨んだが、宣武帝はその剛直を称えた。
  • 盧昶が朐山にあった際、肇は「朐山は小さく僻地で無用の地だが敵にとっては利がある。宿豫との交換に応じ無用の地を手放し旧疆を得るのが得策」と諫めた。帝はこれに従おうとしたが、盧昶はまもなく敗れた。
  • 侍中に遷る。梁の軍主徐玄明が青・冀二州刺史張稷を斬り鬱州を挙げて内附した際、朝議は援軍派遣を議したが、肇は海島の地のために労師すべきでないと表したが容れられなかった。大将軍高肇の蜀討伐に際しても肇は延期を進言したが、また容れられなかった。
  • 明帝即位後、中書令・相州刺史に遷り恵政を敷いた。のち尚書右僕射に再遷。事務処理は速くはなかったが、必ず理を極めてから決裁した。権勢による働きかけにも動じず、その方正な操守は当時の人々に敬服された。
  • 元叉が霊太后を廃し、太傅・清河王懌を害しようとした際、公卿を集めて議論した。多くの官が顔色を失い元叉の意に従う中、肇は独り抗弁して不可とし、最後まで署名を拒んだ。
  • 死後、諡は文貞公。
  • 性格は外は寛柔、内は剛直。経伝を好み、手から書を離さなかった。『周易』『毛詩』に通じ、特に『三礼』に精通。『易集解』を著し、『冠婚儀』『白圭論』を撰し、詩賦表啓は合わせて七十五篇。謙虚で人と争わず、『儒棋』を著してその志を示した。清貧寡欲で俸禄のみに頼った。
  • 廷尉であった時、宣武帝が寛恕を命じても従わず「陛下ご自身が恕されるべきで、臣に曲筆させてはならない」と言った。
  • 明帝の初め、近侍で迎立に功のあった者は侍中崔光以下皆封を加えられ、肇も文安県侯に封じられたが、「子が父の位を襲うのは古今の常なのに、これで封を得るのはどういうことか」と固辞し受けなかった。世論はこれを高く評価した。

祥(肇の子)――経歴

  • 祥、字は宗良。才学があった。新泰伯の爵を襲い、国子博士・尚書郎中を兼ねた。
  • 明帝は肇がかつて文安の封を辞退したことにより祥に封じようとしたが、祥は父の志を守りついに受けなかった。のち肇が清河の議で節を守ったことを追って論功され、祥は高邑県侯に封じられた。
  • 死後、給事黄門侍郎・幽州刺史を贈られ、諡は文。